三四郎池
東京大学本郷キャンパス内に位置する三四郎池は,正式には育徳園心字池と称される景観池である.その起源は江戸初期にさかのぼり,3代加賀藩主前田利常の時代,寛永年間[17世紀前半]に園池が築造されたとされ,加賀藩前田家が江戸上屋敷を構える際に築庭したものである.規模は約一万平方メートルに及び,園内は池泉回遊式庭園の典型的構成を示す.心字池という名は,池の形が「心」の字をくずしたように見えることに由来し,江戸大名庭園の作庭様式に則った設計である.育徳園とは前田家の学問所に付随する庭園の名称であり,池はその中心的要素をなす存在であった.
本郷台地という地形的環境の中で,三四郎池は特異な立地に位置している.文京区は,武蔵野台地の東端部に位置しており,区内には台地が広く分布する.また東の境界沿いと南側の神田川沿いは谷地となっており,区のほぼ中央部分にも比較的大きな谷地が縦方向に横たわっている.三四郎池は,まわりの敷地からかなり低くなったところにあるので,木々に囲まれてあたりの景色から隔絶され,安らかな気分になれるところである.この低地は,本郷台地を刻む開析谷の最上流部にあたり,湧水に由来する自然の水系を基盤として池が形成されている.台地上に降った雨水が地中に浸透し,不透水層に阻まれて谷頭部で湧出することにより,安定した水源を確保している.
江戸御上屋敷惣御絵図には池の北東隅から北に暗闇坂へと伸びる水路があったという[坂口豊,「東京大学の土台」*].
明治維新後,加賀藩邸の大部分が収公されて東京大学の敷地となった際,心字池も大学の管理下に移った.その後,夏目漱石が1908[明治41]年に朝日新聞へ連載し,同年単行本化した小説『三四郎』において,この池が舞台として描かれたことにより,「三四郎池」の呼称が広く定着した.漱石は同作の中で,池の静謐な佇まいと学生たちの交流を象徴的に描写しており,以後,文学的象徴性を帯びたキャンパスの景観として親しまれるようになった.
池は築山を背にし,石組や中島を配した伝統的庭園様式を残している.関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている台地上にあって,池の底部は下位の凝灰質粘土層まで掘り込まれ,池底の止水機能を果たしている.周囲にはクロマツ,ケヤキ,イチョウなどの樹木が植栽され,四季折々の景観を演出する.キャンパス内の森といっても過言ではない木立は,東京大学創立以前から生えていたと思われる背の高い樹木も多い.かつては池に舟を浮かべることも行われ,江戸諸侯邸の庭園の中でも屈指の名園と称され,文人墨客の遊興の場ともなったと伝えられる.大学構内にありながら,都市の喧騒を離れた静寂な空間を形成し,学生や研究者の憩いの場として今日まで存続している.
戦後には一時期荒廃が進んだが,東京大学や関係団体による修復と保全活動により植生や水質の維持が図られ,現在も良好な環境が保たれている.春の新緑,秋の銀杏の紅葉は見事である.また小鳥や水鳥だけでなく栗鼠などの小動物と出会うこともある.樹木・水・土・生物という自然の感触を味わうことのできる小さな楽園として,学内外の人々に開放される機会もあり,学術研究の場であるとともに,文化的・歴史的価値を有する景観資産として位置づけられている.
地形学的観点から見れば,三四郎池は武蔵野台地の東縁部における典型的な谷頭侵食地形の上に築かれた人工池であり,台地と低地の境界に位置する立地特性を活かした江戸期の造園技術の優れた事例である.現在も台地斜面からの湧水や降雨による流入により水位が維持されており,都市化が進んだ現代においても,江戸時代から続く水循環システムが機能し続けている貴重な空間といえる.
東京都文京区本郷7丁目3@2017-06.
国土地理院タイルに三四郎池を追記.
今日も街角をぶらりと散策.
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