守谷城

茨城は守谷の相馬氏発祥の地にあるお城。

守谷城は島状の台地である平台山から、現在の守谷小学校の地にかけて拡がります。

最初の城は平台山に相馬師常(1139-1205)によって鎌倉時代に築城されました。この城は守谷本城とも呼ばれています。

平将門の子の平将国は将門が討たれた後、常陸国信田郡に落ち延びます。その子孫の信太重国は下総に本拠地を移し千葉常兼に従って後三年の役を戦ったことで知られています。この信太重国は下総高井戸城を築城しています。当時、平将門にゆかりの深い相馬の地は千葉常長の子の常晴が所領としていました。信太氏は重国から胤国を経て師国の代に千葉常胤の子の相馬師常を養子として迎え入れます。これが相馬氏の始まりとされているのです。

信太氏を従えていた千葉常兼(1045-1126)の子の千葉常重(1083-1180)は1124(天治元)年に叔父の相馬常晴(上総氏の祖)の養子となり相馬郡を譲られました。千葉常重は譲られた相馬郡を1130(大治5)年に伊勢内宮に寄進して相馬御厨としました。

ところが、1136(保延2)年、下総守藤原親通が相馬郡の税金を納めていないとの理由で千葉常重を逮捕し相馬郡を自らの所領としてしまいます。

事はこれで終わりませんでした。もともと相馬郡を所領としていた千葉常晴の子の上総常澄に庇護されていた上総御曹司源義朝は1145(天養2)年に千葉常重に強制して相馬郡を譲らせた上で伊勢神宮に寄進します。

これに対して、千葉常重の子の千葉常胤は1146(久安2)年に税金の未納分を納めて相馬郡司の地位を取り戻します。そして、再び、伊勢神宮に寄進したのです。千葉常胤の寄進したのは南相馬で、千葉常重と源義朝が寄進したのは北相馬だったと言われています。

後に千葉常胤は源義朝の傘下に入り相馬の支配権を確実なものとします。

しかし、1160(平治元)年の平治の乱で源義朝が敗死し平清盛が政権を握ると、1161(永暦2)年に佐竹義宗が前下総守藤原親通の次男・親盛から相馬郡の権利を譲受け寄進するという事態になります。藤原親盛は子の親政に平清盛の妹を正室として迎え、娘を平清盛の嫡男の平重盛の側室にするなど平家との関係が深い人物。千葉常胤と上総広常は佐竹義宗・藤原親盛による相馬郡の争奪に反発しますが、平家全盛期の中で相馬郡は佐竹氏の所領として認められます。やがて、上総広常も平家が派遣した上総介藤原忠清との争いに忙しくなり、相馬郡の支配権は佐竹氏・房総藤原氏のものとなります。

1180(治承4)年、挙兵したものの石橋山の戦いに敗れた源頼朝は房総に逃れます。この時、挙兵直前に三浦義澄とともに京都から伊豆の源頼朝の下に参上していた千葉常胤の六男の東胤頼が千葉常胤に対して源頼朝への合流と平家の家人であった下総目代平重国の討伐を主張し認められます。

東胤頼らは下総国衙に出兵し下総目代平重国を討ち取ります。続いて、千田荘にいた藤原親盛が千葉荘に進軍すると、東胤頼の甥の千葉成胤が反撃し激闘の末に藤原親盛を捕虜とします。平家方として房総を支配していた藤原親盛を源頼朝方の千葉氏が捕虜としたことで上総広常らも源頼朝に与することを決心したといいます。

富士川の合戦の後、1185(治承4)年に源頼朝は平家と同盟する佐竹氏を攻め、太田城に籠もる佐竹義政を殺害、義政の弟の佐竹秀義を奥州花園山へと駆逐します。この結果、千葉常胤は源頼朝から相馬御厨を与えられ所領を回復しました。

そして、千葉常胤の子の相馬師常が相馬を任され、かつ、伝承では相馬にゆかりの深い平将門の子孫とされる信太師国が相馬師常を養子に迎えたとされています。ちなみに、下総高井戸城主の信太氏も相馬師常に始まる相馬家に倣って相馬を名乗るようになりますが天正年間になって高井を名乗るようになります。

4代目の相馬胤村の死後、胤村の後妻である阿蓮尼が擁立する相馬彦次郎師胤と嫡子の相馬次郎左衛門尉胤氏との間で所領争いが生じます。この争いに対して鎌倉幕府は相馬彦次郎師胤に下総の遺領と陸奥行方の一部の領有を認め、相馬次郎左衛門尉胤氏を嫡子として認める一方で下総の遺領の相続を認めず行方のみの相続を許します。

これを不服として相馬次郎左衛門尉胤氏は幕府に再三にわたって訴えますが受け入れられず行方に立て籠もるという情況になります。胤氏の子の相馬五郎左衛門尉師胤も下総の遺領の相続を主張し続けたために、鎌倉幕府は遂に所領の三分の一を収公し長崎思元入道に与えてしまいます。これによって、相馬惣領家は没落していきます。

一方、事実上の惣領家となった相馬彦次郎師胤の跡は子の相馬重胤が継ぎます。相馬重胤は行方の領有を巡って北条得宗家の有力家人である長崎思元入道と争論を繰り広げます。そして、領有の主張が認められず、行方の自らの所領の維持にも危機感を抱いた相馬重胤は1323(元享3)年に一族・家子郎従を率いて下総国から陸奥国行方郡太田村に移住するに至ります。これが奥州相馬家の始まりとなるのです。

相馬重胤が奥州に移ったことで下総相馬の地に相馬一族がいなくなったかというとそうではありません。

相馬家分裂の火種を作った第4代惣領の相馬胤村の兄に胤継がいました。胤継は第3代惣領の相馬胤綱の嫡男です。相馬胤継は鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣(源頼朝の同母妹の曾孫の子)、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王(後深草天皇の異母兄)に仕えたことが知られています。

しかし、第3代惣領相馬胤綱が亡くなった後、継母の相馬尼と相馬尼の実家である天野家が相馬家の実権を掌握。相馬尼が惣領代として実子の相馬胤村を惣領とし、相馬胤継を義絶してしまいます。その後、相馬胤継の子孫は守谷周辺を本拠地として弟で惣領となった胤村の子孫とは独立していきます。

相馬胤継から始まる下総相馬氏の系譜と胤村の子で惣領を継いだものの下総の領地を失った相馬胤氏の系譜は混乱していますが、これはもしかすると、惣領となるはずであった下総相馬氏が惣領でありながら領地を失った親戚を包含したことを示しているようにも思えます。

ともあれ、下総相馬氏は奥州相馬氏とは独立した動きをとり、長らく千葉宗家の一族として千葉氏に従って乱世を生き抜きます。しかし、1455(享徳3)年に享徳の乱が勃発し、第5代鎌倉公方足利成氏が下総古河に入り初代古河公方となると、千葉宗家から独立して古河公方の奉公衆として活躍するようになります。守谷城は簗田氏の関宿城、野田氏の栗橋城と並んで古河公方方の重要戦略拠点となったために下総相馬氏の地位も向上しました。

1544(天文13)年、河越合戦にて古河公方は宿敵の扇谷上杉家、山内上杉家と連合して北条氏に戦いを挑みますが敗戦。扇谷上杉家は当主の上杉朝定が討死して滅亡し、関東管領山内上杉家の上杉憲政も居城を失い越後に逃れる状況下、第4代古河公方足利晴氏は御所を北条軍に包囲され降伏します。第4代古河公方足利晴氏は北条氏綱の娘の芳春院を母に持つ足利義氏に家督譲渡を余儀なくさせられます。

この事態に下総相馬家中は親北条派と反北条派に分裂。相馬整胤らが殺害され、高井城主の治胤が古河公方奉公衆の簗田氏の支援を得て下総相馬家を継ぎます。簗田氏と下総相馬氏はともに上杉謙信のもとで古河衆として後北条氏と干戈を交えます。しかし、後北条氏が関東における支配を固めると、簗田氏と下総相馬氏はは後北条氏の軍門に下りました。

1580(天正18)年、豊臣秀吉が小田原征伐を開始すると、相馬治胤・胤永兄弟は小田原城に籠城。その一方で、相馬治胤の子で守谷城にあった相馬秀胤は徳川家康に内応。後北条氏が豊臣秀吉に降伏した後、相馬秀胤は5000石で召し抱えられています。相馬秀胤の病死後には弟の胤信が下総相馬家を継ぎますが関ヶ原の戦いに出陣せずに病没したために一旦改易となりました。

胤信の跡は弟とされる盛胤が下総相馬家を継いでいます。



鎌倉にある相馬師常の墓