益子古城

益子にある戦国時代の益子氏の居城。

益子氏は益子小学校の地にあった益子城を初め居城とし、次に益子古城に居城を移したと考えられています。つまりは、この益子古城は二番目の城であって決して古城ではないことになります。

しかし、古来より何故か古城と呼ばれ続けてきました。とは言っても、これも仮説ではあります。益子の郊外にある西明寺城は益子城と益子古城の詰め城として築城されたと考えられています。

益子氏の当主であり七井城主であった益子勝忠は宇都宮氏に叛旗を翻したことによって宇都宮国綱により尾羽寺にて毒殺されてしまいます。この毒殺によって益子家宗は宇都宮氏・佐竹氏連合から離脱。結城晴朝や後北条氏と結ぶことになります。

1589(天正17)年、宇都宮国綱は芳賀高定、多功綱継、笠間綱家、塩谷由綱らと益子家宗を攻め、益子氏は歴史の表舞台から葬り去られました。


2009年11月1日訪問