岩倉城

織田敏広が1479(文明11)年頃に築城して以来の岩倉織田伊勢守家のお城です。

標高8〜10メートルの自然堤防の上に築城され、お城の範囲も五条川の東岸にまで及び、本丸館は間口21間(約38メートル)、奥行13間(約23メートル)の平屋造で二重の望楼も附属していたと考えられています。

織田信長の家は清洲の織田大和守家の家臣だったのでライバル。

尾張は守護の斯波武衛家のもとで、清洲と岩倉の両織田家が守護代が二分していました。

1558(永禄元)年に、織田家の嫡流であり岩倉城主の織田信賢は、美濃の斎藤義興と同盟して織田信長と戦いますが(浮野の戦い)、犬山城主織田信清(元は岩倉織田家の家臣でしたが織田信長と同盟)が織田信長に加勢したため敗北。翌年には岩倉城も織田信長に包囲されます。この戦いの背景には織田信賢が織田信長の弟で信長と争った末森城主織田信行を支援していたということがあります。

結局、織田信賢は分家の分家である織田信長に降伏し開城。追放されます。

この時、山内一豊の父親で岩倉織田家の家老であった山内盛豊は討死したと伝わります。

江戸時代に入り、山内一豊が土佐藩主となると流浪していた織田信賢を土佐に呼んだとも言われ日輪山真如寺に葬られています。


現地案内板


城址近くの神明生田神社にある山内一豊生誕の地の碑