興福寺銅造仏頭

天武天皇が685年に蘇我倉山田石川麻呂[/649-05-11]のために造った飛鳥山田寺の本尊像の頭部だったもの.

蘇我倉山田石川麻呂は異母弟・蘇我日向の謀反の告発により孝徳天皇から討伐を受け,自ら開基した飛鳥山田寺にて一族と共に自害.この時,飛鳥山田寺は造営途中であったが,天武天皇の皇后で後に持統天皇となる菟野皇女蘇我倉山田石川麻呂の孫であったことから支援を行い造営が継続されたとされる.

九条兼実[1149/1207-05-03]の日記である玉葉によると,文治3[1187]年に興福寺の僧兵が飛鳥山田寺に押し入り,本尊を興福寺の東金堂に移し本尊薬師如来像としたという.当時の興福寺は治承4[1180]年の平重衡[1157/1185-07-21]の南都焼討により焼け再建中であった.なお,鎌倉時代には飛鳥山田寺興福寺の末寺になっていたと考えられる.

その後,応永18[1411]年に東金堂が被災し,本尊も頭部を残すのみとなる.応永22[1415]年に残された頭部は再興された東金堂本尊の台座に納められた.昭和12[1937]に発見.


'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"

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