源 義朝公御廟

野間大坊は源義朝(1123-1160)の終焉の地。鎌倉で関東武士団との紐帯を深め、京都にいた父親の為義とは別の道を歩んだ。1156年の保元の乱の際には為義と袂を分って後白河天皇方に付いて平 清盛とともに崇徳上皇方を破った。

しかし、戦後に平家が重んじられたことを不満とし、藤原信頼とともに平 清盛、藤原信西に対して挙兵(「平治の乱」)。清盛に敗れて、長男義平、次男朝長、三男頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)、源義信(平賀義信)、源重成(佐渡重成)、家臣の鎌田政清、斉藤実盛、渋谷金王丸とともに鎌倉を目指した。その途中で朝長、義隆、重成は深手を負って落命し、義平は志内景澄とともに京都へ舞い戻り捕縛。頼朝は逸れてしまい平家軍に捕われる。

どうにか尾張の知多まで辿り着いた義朝主従は源氏譜代の郎党だった長田忠致父子のもとに身を寄せる。安心して湯船に浸かっていた義朝は長田父子に襲われて落命してしまう。最期を迎えた義朝は「我に木太刀の一本なりともあれば」という言葉を残したという。そのために、義朝の墓には慰霊のために多くの木太刀が現在でも供えられている。

【参照】六条判官墓所