多気北畠氏城館

三重県は津にある伊勢国司の北畠氏の本拠地。現在は北畠神社となっている地は、多気の中心に位置し、後方には霧山城が詰め城として控えている。

南北朝で知られる北畠氏は村上源氏。村上天皇の皇子具平親王の子季房が源姓を与えられ、その七代通親の子の代で、堀川氏、久我氏、土御門氏、中院氏の四家に分かれた。このうち、中院通方の子の雅家が洛北の北畠に居を構えたことによって北畠を称した。これが北畠氏の始まり。

その子孫である親家は鎌倉時代末期に後醍醐天皇に重用され建武中興の立役者となった。

鎌倉幕府を倒した後、北畠親家の嫡男である顕家は陸奥守として東国を拠点として、鎌倉幕府倒幕のもう一方の立役者である足利氏と対峙した。

1338(延元3)年5月に北畠顕家は後醍醐天皇の命によって、足利方の高・細川軍と摂津阿倍野で戦い、和泉国石津にて壮絶な戦死を遂げた。この顕家の子が陸奥にあって浪岡御所と呼ばれるようになる。

一方、顕家の弟で三男の顕能は、建武2年に伊勢国司となって一志郡多気に城館を築いた。これが、多気北畠氏の始まりである。この北畠氏が北畠氏の嫡流となっていくが、八代続いた後、具教の代、1569(永禄12)年に織田信長に攻められ居城を追われ、織田信長の次男・茶筅丸(信雄)を養子に迎えざるを得なくなった。最後には、北畠具教は信雄によって殺害され、北畠氏の歴史は幕を降ろした。


北畠氏の詰め城である霧山城