千種城

三重県は菰野にある南北朝以来の古城。

後醍醐天皇の側近の千種忠顕の子の顕経が1381(永徳元)年に築城。

千種氏と北畠氏はともに村上源氏の久我氏の出身。北畠氏が伊勢を支配する中で千種氏は客将として重い扱いを受けたと考えられている。千種家は北伊勢三家六人衆の一つである。

1555(弘治元)年に近江の六角義賢(承禎)が小倉三河守を将として北勢に侵攻。これに対して当時の当主であった千種常陸介忠治は互角に戦った末に和睦に持ち込んだ。

その和睦の証として、六角家の重臣・後藤但馬守基勝の弟が千種忠基として千種家の養子として迎えられた。

しかし、千種忠治に実子の又三郎が生まれると家中に争いが生じ千種忠治・又三郎父子は千種忠基によって追放された。千種常陸介忠治は1558年に萱生春日部大膳、星川春日部若狭守を従えて千種城を攻めるも敗れ六角氏を頼った。

ところで、後藤家は六角家中にあって進藤家とともに六角の両藤と称された家柄。当主の後藤賢豊は1563(永禄6)年に六角義賢によって近江観音寺城で暗殺されている。

つまり、この時期、近江の後藤家と主家である六角家は対立関係にあった。この影響は千種家中にも及んでいたと考えられる。

また、観音寺城を家臣団によって追放された六角義賢は蒲生定秀の取りなしによって再び城に戻ることが出来たものの、足利義昭を奉じた織田信長の上洛を阻止しようとして敗れ甲賀へと落ち延びた。

そのため、伊勢に侵攻してきた織田信長軍の先鋒である滝川一益は頼ってきた千種又三郎に六角氏に近いという理由で自刃を命じている。

後に、千種忠治は北畠具房の養嗣子となった織田信雄によって千種城を安堵された。この際、千種忠治はは富田信濃守知信の甥を千種顕理として養子とした。織田信雄の後に豊臣秀吉に仕え、引き続き、秀頼に仕え、1615(元和元)年の大阪夏の陣で討死。

これによって、南北朝以来の古城である千種城は廃城となった。