山形城

現在は霞城公園となっている山形城址。1356(延文元)年に足利将軍家の親戚である斯波兼頼が奥州大崎から羽州探題として山形に入部した際に館を建てたのが起源。


2010年7月17日訪問

その子孫である最上義光が慶長年間(1592-1615)に本格的な城郭として城下町と一体として整備した。

最上義光は最上、村山、庄内の57万石を支配下に置き、清和源氏の名門としての誇りを実のあるものとして示した。伊達政宗の伯父でもある。

最上義光は1613(慶長18)年に駿府における徳川家康への拝謁からの帰国後、かねてからの病のために病死。寒河江十兵衛、寒河江肥前守、長岡但馬守、山家河内守の4人が殉死した。

義光を継いだ家親は1617(元和3)年に義光の後を追うように死去。

次いで、孫の義俊(1605-1632)が13歳で藩主となる。

しかし、叔父で義光の四男である山野辺義忠(1588-1665)を家臣団が擁立しようとし藩内騒動となり、1622(元和8)年に最上家は改易となった。

山野辺義忠は徳川頼房に預けられ、後に水戸徳川家の家老となった。

一方、義俊は近江大森藩1万石に封じられ、その子・義智が家督を継ぐと5000石に減封され、名門である最上家は大名から交代寄合として存続した。