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[誕生寺(小湊_安房)]
三水ホテルを後にして、まずは目の前にある日蓮上人ゆかりの誕生寺の境内へと向かう。
門前の商店にボンタンの大きなものが1つ1000円也で売られているのを見て買いたくなる衝動に囚われる。しかし、大きな荷物を抱えての散策は骨が折れるので後回し。
さて、日蓮宗の開祖である日蓮上人(1222-82)は、ここ安房小湊の生まれ。何でも、自身による『本尊問答抄』の中で「安房国長狭郡東條郷片海海女の子なり」とあるとのことであるし、没後に編まれた『本門宗要抄』にも「出生の処は安房国長狭郡東條小湊の釣人権頭の子也」とあるのだとか。
小湊すなわち現在は鯛の浦で知られる安房小湊。
日蓮上人の誕生した地ということは日蓮宗にとっては聖地ということになる。が、誕生寺は日蓮上人の没後に建立されたものではない。上総興津の有力者、佐久間兵庫助重吉の子の日家(竹寿麿)と甥の日保(長寿麿)によって、日蓮上人を開山として建治2(1276)年に、高光山日蓮誕生寺として建立されている。明応7(1498)年の地震と津波による被害を受けるまでは現在の地ではなく、祓崎南端にあったという。その地が善日麿こと後の日蓮上人が生を受け12歳までを過ごした地。そして、日蓮上人の母の梅菊が菩薩荘厳堂を建てた地。
道路に太鼓橋が掛かっていたり、現在の誕生寺の寺域もかなりの広さになると思うけれども、移転後の延宝8(1498)年の記録の『誕生寺寺法』には境内は南北3,456メートル、東西2,160メートルとあるというから現在の小湊の温泉街をすっぽりと飲み込むほどの規模だったということになるのだろうか。
天正8(1580)年には安房の大名、里見義頼が寺領を寄進、慶長9(1604)年にも里見家重臣正木頼忠が寺領を寄進。鯛の浦はこうして寄進された寺領の中に含まれているのだという。そう、鯛の浦は誕生寺の持ち物ということになる。
しかし、元禄16(1703)年に再び大地震と津波が襲い、僧を含めて408名が犠牲となってしまう。この誕生寺二度目の存亡の危機を救ったのは、水戸徳川家の徳川綱条(粛公)。粛公は光圀公追善供養を名目として、七堂伽藍の建立を行い誕生寺は元の輝きを放ったのだという。この際に、寺の名前は第26代日孝上人によって小湊山誕生寺と改称されている。それだけ被害が大きかったということの証明にもなろう。
せっかくの七堂伽藍は、残念ながら宝暦8(1758)年大火で多くを失ってしまい、天保13(1842)年から弘化3(1846)年にかけて雨落十八間四面総欅造の祖師堂が、明治23年には有栖川宮熾仁殿下による竜王殿が、昭和6年に総欅造の貴賓殿が建立され現在の姿になっている。但し、仁王門だけは粛公当時の姿を伝えているので必見。近くで顔を摺り寄せても見る価値がある。
今回、特別に内部が公開されるというので、祖師堂右の南部藩相馬大作が安房小湊に100余日に及ぶ逗留中に描いたという天女絵や、明治帝御生母中山慶子一位局、大正帝御生母柳原愛子一位局御寄進の仏具、回廊を渡った本堂の格天井を飾る石川響画伯による82枚の仏教植物画、貞享元(1684)年作の大仏師左京法眼康裕の手になる十界本尊木像を見学。

2005.2.20(日)訪問
[祖師堂]堂内の52本の柱などは江戸城改築のための建材として伊達藩が海上輸送中に遭難したものを譲り受けたのだという。