梶原景時の滅亡

相模国一ノ宮に城[一宮館]を築き立て篭もっていた梶原景時一族が夜陰に乗じて上洛。

報せを受けた鎌倉方は追っ手を差し向ける。

しかし、梶原景時・景季父子が駿河国清見関を通りかかった時、近隣の御家人・吉川友兼[吉川氏第2代,1159-1200/2/7]、渋谷重国の子の飯田家義[富士塚城主]がそのこそこそとしている姿を非常に怪しんで仔細を尋ねようとしたところ合戦となる。

この合戦で梶原一族は前後挟み撃ちに遭い、景時とその子らの源太景季、平次景高、三郎景茂から九郎景連まで全員が戦死。鎌倉党梶原一族の嫡流は族滅に至った。

後に、甲斐の武田信義の子の武田有義[-1200]が梶原景時と同盟していたことが発覚し逃亡。第2代将軍源頼家の近習であった勝木則宗も与力していたとして捕縛。これは武田有義の弟・武田信光[石和五郎,1162/4/20-1248/12/21]の密告によるものだった。

更に翌年には梶原景時が預かっていた元平家方の城長茂[1152-1201/3/28]が京と越後で決起し討伐されている。

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