1199[正治元]年

1月

13日 源頼朝[鎌倉殿]が薨去する。源頼朝[鎌倉殿]は臨終の際に畠山重忠[1164-1205/07/10]を呼んで幼かった次男[実朝]の将来を託した | 20日 源頼家[1182/9/11-1204/8/14]が左近衛中将に任じられる | 26日 源頼家が諸国守護惣奉行に任ぜられる

2月

『三左衛門の変』勃発する。京都で故一条高能の家人であった後藤基清、中原政経、小野義成の3人の左衛門尉が権大納言・源通親[1149-1202/11/7]を襲撃。通親は院に立て篭もった。この事態に対して源頼家[羽林殿,鎌倉殿]は捨て置けと言い放ったとされる。大江広元と北条義時は中原広季の子で大江広元の弟の中原親能を京都に派遣して事態を収拾した

源通親[1149-1202/11/7]

村上源氏の全盛期を築いた鎌倉時代の公卿。

土御門通親、久我通親とも呼ばれる。

治承・寿永の乱の際も源平いづれの勢力に与することなく後白河院に仕え、寿永2年11月19日に木曾義仲が法住院殿を襲撃して後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉した軍事クーデター法住寺合戦の際にも法住院殿に参じたことが知られている。

平家滅亡後、後白河法皇は源義経の要請を受けて源頼朝追討の院宣を出したことに対抗して、源頼朝は廟堂改革要求を出します。親平氏派だった近衛家、親木曾義仲派だった松殿家を排除して、九条兼実・徳大寺実定・三条実房・中御門宗家・中山忠親・藤原実家・吉田経房・藤原雅長・日野兼光とともに源通親も議奏公卿に選ばれます。

九条兼実と源通親はやがて対立し、源通親は閉塞を余儀なくされたものの、自らの養女・在子が皇子為仁[土御門天皇]を産んだことを契機に、九条兼実を失脚させます[建久七[1196]年の政変]。

さらに、建久9[1198]年に土御門天皇が即位すると源通親は権勢を極めた。

後藤基清、中原政経、小野義成らが源通親を襲撃を計画した背景には、彼らの主家であった一条能保・高能父子が世を去った上に、源頼朝も世を去ったために、一条家が没落することへの危惧があったとされる。この時、源頼朝と繋がりが深かった文覚にも嫌疑が掛けられ捕縛されている。同時に、文覚に保護されていた平家嫡流の六代御前が斬首されている。もっとも、六代御前は前年に斬首されていたとの説も。

3月

足利義兼[1154-1199/4/5]が逝去する | 文覚上人が佐渡に配流される

4月

12日 北条政子らが源頼家の相論直裁を停止。問注所を三善康信邸に移す | 20日 源頼家が小笠原長経、比企三郎、細野四郎、中野能成、和田朝盛の鎌倉中での狼藉をも許すという特例を梶原景時と中原仲業に伝えさせる

5月

源頼家の妹の三幡の病気の治療のために典薬頭・丹波時長が鎌倉入り

6月

22日 土御門通親が内大臣となる | 30日 治療の甲斐なく三幡が逝去する

7月

12日 親鎌倉派の院厩別当西園寺公経と関東伝奏吉田経房が土御門通親によって解任される。新たに関東申次として坊門信清を任命する

8月

12日 安達景盛を討伐しようとする頼家を北条政子が譴責。頼家は安達景盛の妾に横恋慕し、景盛に三河国の治安平定を命じる。頼家は景盛が鎌倉を出発した隙に景盛の妾を拉致した。これに怒った景盛に対して頼家は謀反であるとして討伐しようとしていた。

10月

28日 結城朝光が讒訴された件に付いて和田義盛ら御家人66人が梶原景時を弾劾することを決議する

11月

13日 梶原景時一族が鎌倉を出て相模一ノ宮[一宮館]に篭る

12月

29日 梶原景時が播磨国守護を解任され、新たに小山朝政が守護に任じられる

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.