武田勝頼

武田勝頼の墓[天童山景徳院 2008/09/07]

武田勝頼(1546〜1582)は武田信玄と諏訪御料人との間に産まれた武田家最期の当主です.母親の諏訪御料人(1530〜1555)は,諏訪氏第19代当主・諏訪頼重(1516〜1542)の娘.諏訪頼重には武田信虎の娘,つまり,武田信玄の妹の禰々御料人が後妻として嫁いでいたものの,1541(天文10)年に武田信玄が父親の武田信虎の駿河追放に続いて諏訪に侵攻し,諏訪頼重は敗れ甲府東光寺において死去.

武田信玄は諏訪御料人を側室として産まれた子に諏訪家の惣領家を継がせることとします.こうして産まれたのが武田勝頼です.

武田勝頼は予定通りに諏訪氏を継ぎ信濃高遠城主となります.しかし,武田信玄の嫡男の武田義信(1538〜1567)が父親の信玄との間で,対今川政策を巡る対立が勃発.武田義信は甲相駿三国同盟の結果,今川義信の娘・嶺松院を正室に迎えていました.

1560(永禄3)年に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死.この事態に対して,武田信玄は甲相駿三国同盟を破棄し今川領国への侵攻を志向するようになります.これに武田義信は反発しますが逆に父親の信玄に捕えられ,廃嫡され東光寺で自刃します.

これによって諏訪家を継いでいた武田勝頼が武田家の継嗣と目されるようになります.

1573(元亀4)年に武田信玄が三河に遠征中に死去すると勝頼は武田家を継ぎます.しかし,武田家中には諏訪家出身の勝頼に反発する向きが少なくなかったと言います.

武田勝頼はそうした負い目を拭うように,遠江高天神城や美濃明智城を落とし,父親の武田信玄以上の働きをし,織田・徳川連合軍と伍していきます.

しかし,1575(天正3)年,徳川家康は武田方の山家三方衆の一画であった奥平信昌(1555〜1615)を調略.武田信玄の死後,徳川軍は武田方の山家三方衆・長篠菅沼家の菅沼正貞の三河長篠城を攻略していました.徳川家康は奥平信昌を長篠城を守らせます.

奥平信昌の離反を知った武田勝頼は1万5千の大軍を率い出陣しますが,一気に長篠城を落とすことは出来ませんでした.そこで,武田勝頼は鳶ケ巣,久間山,中山,姥ケ懐の5砦を築城して長篠城を包囲.その上で,浜松城岡崎城の分断を図るために二連木城牛久保城を攻撃し落城させ,続いて,織田信長の援軍を待つ徳川家康が入っていた三河吉田城を攻撃します.徳川家康は織田信長本隊を待ち籠城したため,武田勝頼は三河吉田城を攻略するのは無理と判断し再び長篠に戻ります.そして,本格的な長篠城攻撃を開始します.その後,織田信長・徳川家康連合軍は長篠城からの使者・鳥居強右衛門の報告を受け,奥平信昌を救援すべく後詰として長篠に出陣し,武田軍と設楽原で対峙.この時,酒井忠次は分遣隊を率いて鳶ケ巣山砦を襲い,武田軍の補給路を断つことを進言.この進言が受け入れられ,酒井忠次は金森長近とともに,武田勝頼の叔父・武田(河窪)信実(〜1575)の守る鳶ケ巣山砦を落とします.鳶ケ巣山砦落城を契機として武田5砦は次々に落城.守将の武田(河窪)信実,三枝昌貞は討死.酒井忠次隊は有海村駐留中の武田支軍をも壊滅させ長篠城の奥平信昌軍と合流し,武田勝頼軍の退路を完全に断つ形となります.

長篠城を包囲していた5砦の武田軍敗残兵は武田本隊への合流を目指すも掃討されます.

同じ頃,山県昌景・馬場信房・内藤昌豊・小山田信茂らは兵力差を考慮し甲府への撤退を主張します.一方、武田勝頼側近の跡部勝資は,いずれにしても決戦は避けられないため,今こそ決戦に踏み切るべきと主張.結局,武田勝頼は親族衆・宿老の反対を押し切り決戦を仕掛けます.

山県昌景・馬場信房・武田信豊・小山田昌行は大通寺で別れの盃を交わし,山県昌景は隊を率いて織田・徳川連合軍へと突撃を敢行します.織田信長・徳川家康連合軍は石川数正,榊原康政,本多忠勝らが陣城から山県昌景,小幡信貞,武田信豊隊を迎え討ち撃退.馬防柵を出た大久保忠世・忠佐兄弟を陽動作戦と知らずに攻撃した山県昌景隊は竹広にて鉄砲の標的となって壊滅.山県昌景も討死します.続いて,武田信廉隊,内藤昌豊隊が滝川一益隊を攻撃するも,武田信廉は壊滅状態となり撤退.内藤昌豊隊は本多忠勝隊,榊原康政隊,大須賀康高隊の餌食となり,内藤昌豊は討死,隊も全滅.

西上野衆兵3千の3番隊を率いた小幡憲重も突撃を敢行し討死.一連の戦いと織田・徳川連合軍による追撃戦の中で,原昌胤,甘利信康,土屋昌次も命を落とします.

信虎・信玄・勝頼の武田家3代に仕え武田4名臣と呼ばれた馬場信房は武田軍が壊滅状態となったため,これ以上戦うことは無理と判断,武田勝頼を田峯城へと落ち延びさせるために,追撃してくる織田・徳川連合軍を一手に引き受け討死します.真田信綱・昌輝兄弟もこの戦いの中で討死しました.

武田勝頼は田峯菅沼氏の菅沼定忠に守られ武節城を経て伊那へと退却します.

武田勝頼が長篠の戦いで大敗北を喫すると三河の武田勢は一掃されます.さらに,織田信忠によって東美濃岩村城が攻略され伊那郡代・秋山虎繁が処刑.徳川家康も遠江国二俣城を攻め依田信蕃を下します.

続いて,徳川家康は諏訪原城をも落とし,武田勝頼方の岡部元信が城将を務める高天神城を包囲すべく横須賀城を築城し武田軍の補給路を断ちます.1580(天正8)年10月,包囲網を完成させた徳川家康は遂に高天神城に攻めよせます.補給路を断たれていたために落城は必至と考えた城将・岡部元信(〜1581)は武田勝頼に援軍を求めます.ところが,武田勝頼は駿河の北条氏政との戦いのためと,織田信長との全面対決を避け和睦の機会を探っていたために,援軍を派遣しませんでした.このために,高天神城は落城し岡部元信も討死,城兵の殆どが討ち取られます.

武田勝頼が高天神城への援軍を出さなかったことは大きな影響を与え,武田家に仕えていても守っては貰えないという疑心暗鬼を醸成してしまいます.この結果,木曾義昌,穴山信君,小山田信茂が離反への機会を探り始めます.名門武田家の内部崩壊が始まったのです.

武田勝頼が自害した場所[天童山景徳院]

1582(天正10)年1月,木曾義昌は調略に応じて織田信長陣営に加わります.木曾義昌の妻で,武田勝頼の妹・真理姫が謀反を武田勝頼に報告.武田勝頼は木曾義昌の人質を処刑,武田信豊,跡部治部丞,今福筑前守昌和らを木曾討伐に派遣.これに対して,木曾義昌は苗木久兵衛を始めとする織田軍とともに武田軍を撃破,跡部治部丞を討ち取ります.敗北した武田信豊は諏訪原城まで撤退し武田勝頼と合流の上,甲斐の新府城へと撤退.この情勢をみた小笠原旧臣が筑摩・安曇で相次いで蜂起し馬場美濃守昌房は深志城への籠城を余儀なくされます.

織田軍を率いる織田信忠は大島城の武田逍遥軒信廉を抵抗なく逃亡させ要衝を押さえます.織田信忠が美濃岩村城に入ったのが2月14日,木曾鳥居峠で武田信豊軍を打ち破ったのが15日.翌3月2日には武田勝頼の弟で高遠城主・仁科信盛,佐久内山城代兼副将・小山田昌成の守る高遠城を攻撃し攻略.仁科信盛・小山田昌成ら城兵の多くは自刃・討死します.高遠城落城の報せを受けた深志城の馬場美濃守昌房は織田有楽斎長益に深志城を引き渡しています.この時点で,伊那・安曇・筑摩・諏訪が武田の版図から消えたことになります.

上野国でも北条氏邦が武蔵鉢形城から厩橋城に入り,箕輪城に進軍して上野国衆に帰属を求めます.

北条軍は伊豆戸倉城の笠原政晴を下し駿河東部に侵攻.春日信達・曾根河内守の守る沼津三枚橋城も手中に入れます.同じ頃,武田一門の穴山梅雪は駿河蒲原城において徳川家康と対面し恭順の意思を明確にしています.これを受けて,徳川家康は駿府に酒井忠次,穴山梅雪のいた江尻城に本多重次を配し,穴山梅雪を伴って甲斐への侵攻を開始し,3月10日には市川に陣を敷きます.ここに,駿河における武田家の版図は消失します.

武田勝頼正室の北条夫人の遺骸を葬った場所[天童山景徳院首なし地蔵]

諏訪上原城にいた武田勝頼は2月27日に穴山梅雪の謀反の報せを受けて甲斐新府城へと撤退していました.織田信忠軍は武田勝頼を追撃して3月3日に上諏訪に侵攻.武田家の版図が甲斐一国へと狭められていく中,武田勝頼は新府城での籠城では織田軍の攻勢を食い止められないと判断.小山田信茂の進言に従い,小山田家の支配下にある都留郡岩殿城へと移動します.小山田領は北条領に隣接し,小山田家は武田家中で北条家との取次役を務めていたことから,北条家の庇護を得られる可能性を考えての決断だったのでしょう.

武田勝頼は3月3日に新府城を出発し4日には都留郡への関である笹子峠駒飼宿に入り小山田信茂を待ちます.

織田信忠は3月7日に甲府に侵攻.武田信玄の弟・武田信基,諏訪家当主・諏訪頼豊,武田信廉らが捕えられ処刑されます.同じく武田信玄の弟の一条信龍も討死.

この間,小山田信茂も織田軍への寝返りを決め,9日に人質となっていた小山田信茂の母親を小菅五郎兵衛尉・小山田八左衛門尉に奪還させ,武田勝頼の小山田領内への立ち入りを拒否します.

既に多くの将兵が去り,少数となっていた武田勝頼一行は小山田軍と干戈を交えることも出来ず,日川渓谷へと入ります.しかし,ここでも地元勢力の抵抗に会い,致し方なく3月10日に田野に砦を構えます.11日,滝川一益隊が武田勝頼一行を発見.武田勝頼・信勝父子,土屋昌恒・秋山源三郎兄弟,長坂光堅,小宮山内膳,小原継忠,秋山紀伊守,大熊朝秀らは自刃もしくは討死して果てました.

ここに,甲斐の名門武田家は滅んだのです.

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.