隅切り揺り三本角

伊予国の国衆にして村上水軍で知られる来島村上氏などの家紋.

来島村上

清和源氏村上氏族.来島・能島・因島の三島村上氏の一つ.いわゆる村上水軍.

村上通康[1519-1567]は府中[今治]において正岡氏・重見氏の叛乱を鎮圧した戦功により,河野通直[1500-1572]から重んじられる.村上通康は河野通直の娘婿であったため,河野通直は村上通康を後継者指名.この家督相続に関係して河野通直が予州河野氏の河野通政[1522-1543]と対立する[来島騒動].河野通直は湯築城から追放され,村上通康とともに来島城に籠城.後に,村上通康は河野通政と和睦.

村上通康は宍戸隆家[1518-1592]と毛利元就[1497-1571]の娘・五龍局[1529-1574]との間の娘の天遊永寿[-1594]を妻とし牛福を生んだ.牛福は毛利元就の要請により河野家の家督を相続し,永禄11[1568]年に河野通直となっている.

その前年の永禄10[1567]年,村上通康の死により,子の通総[1561-1597]が来島村上家の家督を継ぐ.村上通総は村上通康と河野通直の娘との間に生まれた子であり,来島村上家の出身でありながら河野家を相続した河野通直は毛利家の血を受け継ぎ,村上通総は河野家の血を受け継いでいた.この関係もあってか,天正10[1582]年,村上通総は織田信長方の豊臣秀吉の調略を受けて織田方に寝返った.

ここに,来島村上通総は毛利水軍・能島村上水軍・河野軍からの猛攻を受けることとなる.耐えきれなくなった村上通総は来島から退去[沖家騒動]し豊臣秀吉の庇護を受けた.その後,豊臣秀吉が天下を平定すると村上通総も本領に復帰.村上通総の子・長親[1582-1612]は関ヶ原の戦いで西軍となり敗れ改易となる.しかし,妻[平賀隆宗娘]の伯父・福島正則の取り成しによって豊後国森藩に封じられた.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.