文武天皇[697-707]の乳母であり,藤原不比等[659-720]の夫人・県犬養三千代[665-733]が元明天皇[位:707-715]から橘宿禰を賜ったことを始まりとする氏族.

橘三千代の没後,子の葛城王・佐為王が朝廷の許しを得て橘諸兄・橘佐為を名乗った.橘諸兄[684-757]は天平15[743]年に左大臣となり聖武天皇・孝謙天皇の治世で朝政を仕切るまでになる.しかし,次第に光明皇后および孝謙天皇の信頼の厚い藤原仲麻呂が台頭.天平勝宝8[756]年に橘諸兄は失脚,翌年に世を去った.その子の橘奈良麻呂[721-757]は藤原仲麻呂に対抗しようとするも捕縛され獄死[橘奈良麻呂の乱;天平宝字元[757]].橘奈良麻呂の乱では小野東人の自白によって,橘奈良麻呂の他,道祖王,黄文王,大伴古麻呂,多冶比犢養,賀茂角足が逮捕され獄死.

以降,橘氏は奈良麻呂の孫で,早世した贈太政大臣・橘清友の娘・橘嘉智子[檀林皇后;786-850]が嵯峨天皇皇后となるまで逼塞.

橘嘉智子の影響力により,弘仁13[822]年には橘常主[787-826]が橘氏としては数十年ぶりに公卿に列している.また,嵯峨天皇と橘嘉智子との間に生まれた仁明天皇が即位すると,嘉智子の兄・橘氏公が外戚として承和11[844]年に右大臣となっている.但し,この間,承和9[842]年,嵯峨上皇の崩御後に皇太子・恒貞親王を擁立して謀反を行なったとして,橘入居[?-800]の子・橘逸勢[782-842]と伴健岑は捕らえられている[承和の変].

とはいえ,橘氏の繁栄は続き,橘恒平[922-983]の代に公卿が途切れるまで,橘岑継[804-860],橘広相[837-890],橘澄清[890-925],橘良殖[864-920],橘公頼[877-941],橘好古[893-972]が公卿となっている.

系譜

関連氏族

橘/山中/田中/若林/伏見/古曽部/田辺/高橋/有良/藤原/五藤/広岡/正玄/井手/三笠/筑後橘氏[大宰権帥・橘公頼の子孫]/薄[橘好古の孫・則隆を祖とする橘氏嫡流家;薄諸光が豊臣秀吉に罰せられ絶家.]/信濃小路[九条家諸大夫の醍醐源氏信濃小路宗増が九条幸家の命により橘氏に改姓.]





















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