上津浦

劉姓大蔵氏族.熊本県天草市有明町上津浦を発祥の地とする.

天草氏・志岐氏・栖本氏・大矢野氏と並んで天草五人衆と称された.

至徳4[1387]年の良成親王が相良氏に宛てた軍忠状に上津浦若狭入道の名がある.なお,明応10[1501]年に菊池武運が天草一揆中宛とした書状があり,その対応は,志岐氏・宮地氏・天草氏・長島氏・大矢野氏・栖本氏・久玉氏,そして,上津浦氏が当たったということが知られている.

天文元[1543]年,上津浦治種が相良氏の支援を受け,天草氏・志岐氏・栖本氏・大矢野氏・長島氏の連合軍と戦う.この時,上津浦氏の本拠地である上津浦城には相良氏の軍勢が詰めたとされる.天文12[1543]年,上津浦千手が家督を相続するとともに,上津浦孫次郎が相良義滋から右衛門大夫の官途を受ける.この頃から,家中騒動が起こり,上津浦城や棚底城から一族が下城.棚底城は相良氏と同盟した栖本氏に奪取される事態となっている.

天文20[1551]年,上津浦重貞が島原の有馬氏の支援を受け棚底城奪還に着手.永禄3[1560]年9月,有馬氏は大野氏・安徳氏らを天草に派遣.上津浦氏・志岐氏・大村氏・松浦氏とともに棚底城を攻撃.11月に肥後の相良氏の仲介により,栖本氏は棚底城を上津浦氏に明け渡した.

天正7[1579]年,天草五人衆は島津氏に帰順.豊臣政権下の天正17[1589]年,小西行長が宇土城普請の夫役をを天草五人衆に課す.これに対して,志岐麟泉が反旗を翻す.上津浦氏ら他の天草五人衆も相次いで叛旗を翻し,小西行長・加藤清正と戦うも敗れる.これにより,上津浦重貞の子の種直は所領没収の上で小西行長の麾下とされた.小西行長が没落した後は細川家に仕官したという.

家紋は四つ長石など.

No:19951115-1422


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出典:Digistats,Wikimedia maps,OpenStreetMap contributors.


出典:Digistats,Wikimedia maps,OpenStreetMap contributors.


出典:天草市教育委員会,『上津浦城跡1』,天草市文化財調査報告書 第5集,2016.





















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