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過日録
年表

[漢帝国/武帝時代]
内政
前141年:第7代武帝即位(位-87)。
武帝は郡県制を推し進め中央集権体制を確立。地方長官などの推挙によって官吏を登用する郷挙里選を実施。
また、董仲舒の建議によって儒学を国学とし世襲制貴族による統治から官僚による統治へと転回を目指す。

前136年:五経博士設置。五経博士は、『詩経』、『書経』、『易経』、『春秋』、『礼記』の五経を教授するとともに文教政策を司るために置かれた官吏。

前140年:この年を建元元年とする元号を制定。元号の起源に関しては、前163年の文帝17年の「後元」とする説もある。
前127年:「推恩令」施行。この推恩令により諸王侯の所領を分割相続させて列侯に封じることが奨励される。加えて、諸王侯の首都への移住が図られ、領国統治は中央政府任命の国相の任務とされることで中央集権化が確立されていく。

外政
前139年:張騫(?-前114)、対匈奴防衛のための使節としてイリ地方の月氏へと派遣される。
張騫は途中で匈奴の捕虜となるも脱走、月氏と交渉し前126年に長安に戻った。月氏との交渉は失敗に終わったものの、功績によって博望侯に封じられた。
前138年頃:匈奴の冒頓単于の攻撃によってイリ地方に本拠を移していた大月氏が、今度は烏孫の圧迫を受けてバクトリア地方へと移動。
後に大月氏国五翕候(トハラ系)の貴霜(クシャン)翕候が大月氏を倒してクシャーナ朝(後1-3世紀)を建国する。
前121年:将軍霍去病が匈奴を討伐し甘肅を手中に。
続いて、霍去病は叔父の衛青とともに匈奴を追討し北方に駆逐。

前115年:イリ地方の烏孫との同盟締結のために派遣。

前111年:南越を討ち、南海、蒼梧、鬱林、合浦、珠崖、タンジ、交趾、九真、日南の九郡設置。
前108年:衛氏朝鮮を討伐し、楽浪、真番、臨屯、玄菟の朝鮮四郡設置。

前106-102年:将軍李広利、汗血馬のために大宛(フェルガナ)を落とす。

前99年:将軍李広利、李陵の匈奴征伐が失敗。李陵は匈奴軍に降伏。
この李陵を弁護し一族処刑に反対した司馬遷が宮刑となる。
前90年:将軍李広利による第3回匈奴征伐。再び降伏。

この頃、西域に武威、張掖、酒泉、敦煌の河西四郡設置。

経済政策
度重なる遠征のために増税のほか塩、酒、鉄の専売、更には売位、売官まで行う。

前115年:「均輸法」によって広大な国土の中での物資の不均一な滞りを防止し物価を安定させるために余剰生産物を買い上げ不足地域へ転売。
経済ブレーン桑弘羊の立案。

前110年:「平準法」によって物価下落時に物資を政府が買い上げて貯蔵し物価上昇時に物資放出するという物価安定策を施行。

五銖銭による貨幣価値安定化を目指した。
それまでは、半両銭が流通していた。

結局、経済安定策は失敗に終わる。