美と歴史トップ
アルファベット別索引
過日録
年表

[漢帝国の誕生]
秦の滅亡
前210年:始皇帝薨去。
前209年:「陳勝・呉広の乱(-前208)」。
陽城の陳勝と陽夏の呉広は秦に徴発され漁陽行きを命じられる。遅延は死刑と決まっていたところ、大雨に遭い間に合う見込みが無くなったことから叛乱を起こす。
陳勝を陳王とし呉広を仮の王とした。この最中に発した「王侯将相いずくんぞ種あらんや」の言葉はあまりにも有名。
叛乱は大規模なものとなり首都である咸陽に迫る勢いとなった。しかし、始皇帝は亡くなったとはいえ、強力な統治組織は機能しており、叛乱軍は章邯将軍によって撃破。
陽城・呉広の二人も部下の手にかかってしまう。
この乱に、蕭何らとともに沛公劉邦が参軍。陳勝・呉公亡き後は劉邦は楚の項梁、項羽と連合軍を組織。後に項羽と関中の覇権を競う。
前206年:「鴻門の会」で劉邦と項羽が和解。
この和解で劉邦は漢王とされ政治の中心部から遠ざけられる。

漢帝国樹立
前202年:「垓下の戦い」で劉邦が項羽を下す。これによって漢帝国が成立。
首都:長安
郡国制施行:直轄領を設け直轄領には郡県制を敷く。地方には諸侯を封じ従前からの封建制を維持。これは、中央集権的な秦の郡県制と周王朝以来の封建制をミックスさせたもの。
その他、100戸をもって1里とし、10里をもって1停とし、10停をもって1郷として組織化する「郷里の制」を実施し各単位の長老(父老)に治安維持と徴税を任せた。各単位の父老は郡と県の三老と呼ばれた官吏によって統轄された。

前200年:「白登山の戦い」で匈奴王冒頓単于に惨敗。冒頓単于との間に盟約を結ぶ。

内乱期
高祖劉邦の死後、皇后の呂太后(-前180)とその一族が第2代惠帝、第3代小帝恭、第4代小帝弘を擁立し政治の実権を握る。

前180年:呂太后薨去。これを契機として呂一族は粛清され文帝が即位。

前154年:「呉楚七国の乱」勃発。第6代景帝(位前157-前141)が諸侯領を没収したために呉と楚など七王国が叛旗を翻す。短期間で鎮圧される。