[鎌倉幕府歴代執権]

[歴代鎌倉将軍]

代数 備考
第1代 初代 北条 時政  保延四年(1138) − 健保三年(1215)
伊豆国田方郡北条にて、北条四郎時家と伊豆伴為房娘の間に生まれる。
[主な戦乱]1204(元久2)年 畠山重忠を二俣川で討つ。
平賀朝雅を将軍にしようとする牧の方の陰謀に加担したことにより政子らにより幽閉。

第2代

得宗

北条 義時  長寛元年(1163) − 元仁元年(1224)
法名を得宗という。
『吾妻鏡』では脚気衝心により死去したとされる。しかし、『保暦間記』では近習により刺殺されたとし、『明月記』では首謀者の1人二位法印尊長の証言として後妻伊賀氏(北条政村母)による毒殺とする。
[主な戦乱]
@1212(建保元)年 信濃国泉親衡陰謀事件
A同年 和田合戦 和田義盛討伐。
B1221(承久3)年 承久の乱 後鳥羽上皇、義時追討の宣旨を出すが、「義時朝臣、天下を併呑」す。この後、京都朝廷への備えとして、六波羅両探題を設置。六波羅探題には、問注所と侍所は設置されなかったとみられるが、評定衆、引付衆、公事奉行人は設置された。また、執権における関東御教書に相当する六波羅御教書を行った。

第3代

得宗家

北条 泰時  寿永二年(1183) − 仁治三年(1242)
貞永元年(1232)に最初の武家法「御成敗式目」を制定する。
 嘉禄元(1225)年、財務とともに民事訴訟を司る評定衆を設置。二階堂行村、三浦義村、三善康俊ら11人を当てる。この職には、北条、大江、清原、中原、三善、二階堂、斎藤氏が就き、政所および問注所の機能は評定衆に代替された。
 北畠親房の『神皇正統記』によると「心正しく、政すなおにして、人をはぐくみ、物におごらない」と評される。
次男時実は1227(安貞元)年に家人高橋二郎により暗殺。嫡男時氏は1230(寛喜2)年に病死するなど身内の不幸に悩まされた。

第4代

得宗家
月輪寺安楽

北条 経時  元仁元年(1224) − 寛元四年(1246)
弥四郎。
第3代泰時嫡男時氏と松下禅尼(安達景盛娘)の子。
執権就任時(1242)に同族の名越氏が反対し将軍頼経の下に結集したため、1244(寛元2)年に頼嗣の元服を強行し将軍を廃して5代将軍に擁立した。
その後、病に倒れ、1246(寛元4)年自宅で「深秘の沙汰」を開き、子供達が幼少であったため、執権職を弟時頼に譲った。子供は権律師隆政(13歳にて没)、佐々目僧正頼助(北条家初鶴岡八幡宮別当)であるが嫡流はこの2人で途絶えた。

第5代

得宗家・最明寺

北条 時頼  安貞元年(1227) − 弘長三年(1263)
1246(寛元4)年に時頼を廃そうとする前将軍頼経と名越光時、時幸らによる寛元の政変を制圧。これにより、関東申次が九条道家から西園寺実氏に交代した。
「時頼是よりして、威勢高く輝きて、天下の権を執り治める」『北条九代記』
 建長元(1249)年、民事訴訟の迅速化を図るべく引付衆を設置。
 1256(康元元)年、赤痢に罹病したことを契機として、家督を嫡男時宗に執権職を眼代として重時流長時に譲り最明寺に退いた。
 出家の後、諸国を回ったという鎌倉版水戸黄門ならぬ時頼廻国伝説が伝えられる。
[主な戦乱]
@寛元の政変
A1247(宝治元)年 宝治合戦 三浦氏一族を奇襲し法華堂で一族約500人が自害。続いて、三浦与党千葉秀胤一族を上総国一柳館で族滅させた。

第6代

赤橋家

北条 長時  寛喜元年(1229) − 文永元年(1264)
得宗以外で初めて執権となる。後嵯峨上皇の時代に六波羅探題を勤める。建長4(1252)年に九条道家(前将軍頼経父)が死去すると、孫の将軍頼嗣を廃し、後嵯峨上皇の第一皇子宗尊親王を将軍に就任させる。後、得宗を継ぐべき時宗が若年のために中継ぎ(眼代)として執権に就任する。父重時が与えた「六波羅殿家訓」で知られる。病没したとされるが、得宗家からの独立を企てたために葬られたという噂が当時から根強い。

第7代

2代義時子

北条 政村  元久二年(1205) − 文永十年(1273)
 第2代執権北条義時の四男。母は伊賀朝光の娘。義時の急死にあたって、義時嫡男の泰時が六波羅探題であったことから、政村の母は兄の政所執事伊賀光宗および三浦義村と図って、娘婿藤原実雅を将軍に、政村を執権とする「伊賀氏の陰謀」に巻き込まれる。「伊賀氏の陰謀」は北条政子による泰時指名で決着し失敗。兄の泰時の温情により連座を免れ、後は得宗家に尽くす。長時が病没の後、時宗が若年のために中継ぎとして執権に就任。
 在任中に、宗尊親王将軍廃位(文永3[1266]年)、惟康親王将軍擁立などに尽力するも、文永5年に蒙古帝国からの降伏勧告文書が出されるに及んで時宗に執権職を譲り、連署に就いた。執権経験者が連署に就任したのは例がない。

第8代

得宗家

北条 時宗  建長三年(1251) − 弘安七年(1284)
 文永5年、高麗の潘阜が世祖フビライの国書と高麗王の副書を持って日本の降伏を求めたのを契機として第8代執権に就任。この時、鎌倉幕府は開国要求を拒否、京都朝廷でも後嵯峨上皇が返書をかさないことで一致。翌年に、蒙古は対馬住民を拉致し再び降伏を要求。京都朝廷は動揺し返書を決定するも、鎌倉幕府は拒否を貫徹。その後も蒙古は趙良弼が使節団を率いて来日するも幕府は無視。文永9(1272)年に大蔵頼季に命じて北条一門ではあったものの反得宗の名越時章、教時を葬り、続いて名越に担がれていた兄の六波羅南方北条時輔を前執権長時の子の六波羅探題北方北条義宗に討伐させた。いわゆる「二月騒動」。但し、長時の死(時宗による暗殺の噂あり)に疑問を抱いていた義宗は時輔を逃したとも言われる。また、謀反の疑いはなかったとして、大蔵一族は時宗により処刑された。
 「二月騒動」により反対勢力を一掃した上で、文永4(1267)年に御家人所領の売買と質入を禁止する法令を発布。これにより御家人領の確定的に把握し蒙古襲来に備える。
 文永11(1274)年に蒙古軍が上陸(「文永の役」)。日本軍態勢不利なるも、蒙古軍の突然の撤退に終わる。この後、幕府は長門宝津にあった使節杜世忠を鎌倉龍ノ口で処刑。そして、弘安4(1281)年に南宋を併呑した蒙古軍の再度の上陸を迎え撃つ(「弘安の役」)。この時は、「文永の役」よりも激戦となるも、暴風雨により結果として蒙古軍は海の藻屑と消えた。
 こうした激動への対応がたたったためか、青年執権は「弘安の役」から3年後の弘安7年に急死する。

第9代

得宗家

北条 貞時  文永八年(1271) − 応長元年(1321)
 北条時宗と安達義景の娘(兄泰盛の養女)堀内殿の子。
 内管領平頼綱により、外祖父である安達泰盛の主張を抑える形で若年ながら執権に擁立される。北条家人たる平頼綱と得宗家に近いながら非北条の御家人の代表として期待の大きかった安達氏は弘安8年に衝突(「霜月騒動」)。不意打ちを受けた安達氏は敗れ、右大将以来の御家人による統治制度は大きく後退する。平頼綱はこれによって勢力を確固たるものにしたかに思えたが、永仁元(1293)年に貞時は干渉を強める平頼綱を討伐し得宗独裁を固める。内管領には被官ではなく北条一門(北条宗方)を据え、新設の鎮西探題には抑えられてきた名越流の時家を就け、その他でも世襲制を超えた人事を実施した。
 一門衆の元老による政事会議たる寄合衆も設置している。
 但し、晩年は改革の志が薄くなり、延慶元(1308)年には幕府奉行人中原(平)政連による「平政連諫草」などが書かれるようになる。このような末期の退廃的風潮は子の得宗高時にも継承されていく。 

第10代

得宗家亜流

北条 師時  建治元年(1275) − 応長元年(1321)
 北条宗政と北条政村の娘との子。
 時宗の養子となり、貞時の娘を娶る。貞時出家の後に執権に擁立(1299)されるも、執権人事に不満を持つ内管領北条宗方による連署北条時村襲撃(「嘉元の乱'1305(」)が起こり宗方は処刑。
 これを契機として、師時は「夜討ち」「強盗」に関する検断を強化する法令を出し、訴訟の迅速化も進められた。
 応長元(1321)年に評定中に倒れ数日後に没した。宗方の怨霊による死亡との巷説が流布される。

第11代

大仏家

北条 宗宣  正元元年(1259) − 正和元年(1312)
 永仁4(1296)年に「永仁の徳政令」(御家人が凡下に売却した所領を無償で返還請求可とするもの)の実行の強化のために貞時による六波羅探題として派遣される。
 高時への中継ぎとして8ヵ月間執権を務める。

第12代

政村流

北条 熙時  弘安二年(1279) − 正和四年(1315)
 北条政村の伊賀流。宗宣の後を受けて、同じく中継ぎとして執権となるも、幕府の実権は長崎円喜高綱の子長崎高資にあった。この時期には後の南北朝への導火線となる持明院統と大覚寺統との関係の悪化を始めとして京都に不穏な空気が流れていた。そのうえ、伏見法皇が兄の上皇の院政開始後も京極為兼と組んで執政を行おうとしたことから持明院内部での軋轢が発生。加えて、親幕府派の西園寺実兼が京極為兼と対立し大覚寺に依ったことから幕府は大覚寺重視へと傾いていく。そうした中で、対応に苦慮した熙時は執権を基時に譲って出家した。

第13代

重時流

北条 基時  弘安九年(1286) − 正慶二年・元弘三年(1333)
 得宗高時の執権就任までの1年間執権として立つ。高時は内管領長崎円喜と安達時顕が保佐。その意味で中継ぎとして以外の役割は期待されなかったといえる。しかし、短い在任期間中に持明院統伏見法皇の側近京極為兼を謀反の嫌疑で六波羅に拘留し土佐に配流した。但し、この事件も基時が主導権を発揮したとは考えにくい。
 高時に執権職を譲ってから17年後に新田義貞を化粧坂に迎え撃ち、普恩寺で自刃。息子の仲時も六波羅探題として倒幕軍と激闘し近江番場で果てた。基時は死に際して、仲時の最期を聞くと、「待てしばし死出の山辺の旅の道同じく越えて浮世語らん」と血で普恩寺御堂に記したという。

第14代

得宗家

北条 高時  嘉元元年(1303) − 正慶応二年・元弘三年(1333)
 最期の得宗。一族もろともに、東勝寺で切腹して果てた。東勝寺は第3代執権泰時による創建。新田義貞による鎌倉侵攻による北条一族族滅時に北条方が火を放ち灰燼に帰した。後に再興され関東十名刹三位に数えられるも戦国期に廃寺となる。
 高時は病と称して執権職を投げ打つ。事実、高時は生まれつき病弱だったことが知られている。しかし、その後継を巡って弟泰家派の安達一族と嫡男邦時派の長崎高資が争う。
 長崎高資は安達時顕を退け、邦時を執権に据えるまでの中継ぎとして金沢貞顕を充てる(御内政治)。
 元徳3・元弘元年(1331)年には高時が御内政治を廃するべく、長崎高頼と工藤右衛門入道に長崎高資を討伐させようと試みる(元弘の乱)も高資に詰問され矛を収める。この出来事により、得宗家は求心力を急速に失い、後醍醐帝の挙兵、赤松円心による京都侵攻そして新田義貞による鎌倉街道下向へと繋がった。

第15代

金沢家

北条 貞顕  弘安元年(1278) − 正慶応二年・元弘三年(1333)
 長崎高資の後押しによって執権に就く。しかし、執権職を逃した北条泰家一派が金沢貞顕を討つとの噂が流れ、鎌倉中が騒然となるに及んで執権を辞する(嘉暦の政変)。

第16代

赤橋家(極楽寺)

北条 守時  永仁三年(1295) − 正慶応二年・元弘三年(1333)
 嘉暦の政変の後、泰家一派の不穏な動きを嫌って、執権職は1ヵ月にわたって空位となる。その後に、連署の次位に当たる引付衆の立場にあった赤橋守時が内管領長崎高資によって最期の執権に擁立される。この時、既に陸奥安東氏大乱と後醍醐帝謀反が勃発し、また、倒幕軍討伐のために派遣した足利高氏が赤松則村に呼応し反旗を翻し、足利と同じく源氏の新田義貞も領国内での内管領家の専横を契機として謀反と滅亡の坂を転げる。
 新田義貞は上野国から鎌倉街道を侵攻し分倍河原で幕府軍を撃破、幕府軍は鎌倉の巨福呂坂で応戦。叛乱軍の一翼を担う足利高氏に妹を嫁がしている赤橋守時は一門の疑念を払うために、激戦が展開するも、劣勢となり洲崎で自刃。新田軍は一気に市街に雪崩れ込み、北条家の立て篭もる東勝寺に殺到する。
 

家紋