[六波羅探題南方]

歴代探題在位内容
北条時房 1221-1225 時政の子、義時の弟、泰時の叔父。
文治 5(1189)年 奥州征伐に参加、元久 2(1205)年 畠山重忠との戦いに参加。その他、和田義盛の乱鎮圧にも従軍。武蔵守。
承久 3(1221)年の「承久の乱」に北条泰時とともに上洛し、鎮撫の後に泰時とともに初代六波羅探題に就任。1224年に兄の義時の死去により鎌倉に帰り、泰時が執権を継ぐと連署に就任。この時房の子の時盛が北条氏佐介流の、朝直が大仏流の始祖となる。
北条時盛 1224-1242 北条時房の子。北条氏佐介流の始祖。
北条時輔 1264-1272 鎌倉幕府第8代執権時宗の兄。文永9(1272)年に、謀反の疑いありとして、時宗の命令により、北六波羅探題の北条義宗により襲撃され死亡したとされる。世にいう「二月騒動」。但し、義宗の手により時宗は逃れたとの説も根強い。
北条時国 1277-1284 佐介時員の子。
北条兼時 1284-1287 得宗時宗の弟、宗頼の子。
北条盛房 1288-1297 佐介政氏の子。
北条宗宣 1297-1302 大仏朝直の孫。北条被官平頼綱を討った得宗貞時を補佐し「永仁の徳政」の実施のために宗方とともに六波羅探題を務める。14代執権高時へのつなぎとして11代執権となる。
北条貞顕 1302-1308 北条顕時の3子で、金沢氏を称し、金沢貞顕とも呼ばれる。
正和4(1315)年に鎌倉に戻り連署に就任、1326年には高時に代わり15代執権に就任するも在任期間は短かった。
北条貞房 1308-1309 大仏朝直の子、宣時の子。
北条時敦 1311-1315 2代執権北条義時の子、7代執権政村の子の政長の子。
北条維貞 1315-1324 11代執権大仏宗宣の子。
北条貞将 1324-1330 金沢流。第14代執権の命令により、新田義貞軍の鎌倉侵攻の際に、長崎高重らとともに鎌倉を防衛戦を展開。
北条時益 1330-1333 元徳 2(1330)に北条仲時とともに、六波羅を巡って足利尊氏軍と激戦を繰り広げる。六波羅が足利軍の手に落ちると、仲時・時益は、北朝の光厳天皇と後伏見・花園両上皇を奉じて再起のため鎌倉を目指す。しかし、山科四宮河原のあたりで戦死。その他の北条軍は近江の番場に至るも、針路を閉ざされ、一向堂(現在の蓮華寺)で北条仲時を筆頭とする六波羅の軍兵430余名は自刃して果てた。