応仁の乱(1467年-1477年)
 「応仁の乱は細川勝元と山名宗全という室町幕府の両雄間の対立と名門の畠山・斯波両家の相続権争いに将軍後継問題が絡み合って生じたのよね」

 「結構、複雑だよね。
室町幕府というのは守護大名同士の連合政権というのが実態でしょ。そのことが問題をいやがうえにも複雑なものにしてしまう」
 「基本的に幕府を支えていたのは細川、畠山、斯波の三管領家。
だからこそ、当時は、この三家を誰が相続するのかということが重要だったわけよね」
 「さらっと言っているけど、その相続っていうことが大切。
一族の長としての立場を相続するという意味だからね。こういう習慣は武士階級の台頭で一旦は薄れたんだけど、室町時代には別の形で、ある意味復活してくるわけだ」
 「で、三管領以外で山名宗全がキーパーソンに上がっているけど。宗全、出家する前は持豊、彼は嘉吉の乱で赤松満祐を討伐した功績で幕府内で頭角を表した人物ね。
細川勝元と初めから対立していたわけではないわよね」
 「そうだね。細川勝元と山名宗全は将軍義政の寵愛を一身に受け、政道を曲げていたと言われる政所執事の伊勢貞親の追放では足並みを揃えているからね。
対立したのは畠山家の相続権争いからということになるかな」
 「畠山義就と畠山政長の対立ね。
義就を支持したのが山名宗全で、政長を支援したのが細川勝元」
 「まず、相続争い、つまり家督争いのもとから行こうか。
畠山義就というのは、畠山持国の実の子。義就が持国の跡を継ぐというのが素直なところ。でも、義就はなかなか産まれなかった。そこで、持国は弟の持富を養嗣子にして家督を譲るつもりだった」
 「ところが、義就がおギャーと。
こうなると、実の子可愛さね。義就が家督を継ぐ。
このまま何事もなかったら応仁の乱は起きなかったわけだけど、そうは問屋が卸さなかった」
 「将軍の義政と対立して、義就は追放されてしまう。
ここで、畠山家の家督は持富の子政長の手に渡る。この時、仕切ったのが細川勝元」
 「将軍と対立するくらいだからね。義就は黙って追放された訳ではない。
河内嶽山城に篭城して幕府軍と対峙するという大胆な行動に出る。ここで、細川勝元と畠山義就という構図が出来上がる」
 「たった一人で幕府軍と対峙するという、その根性に惚れ込んでしまったのが、武力で伸し上って来た山名宗全だね。
公然と義就を支持し始める。
義就は宗全の後押しで再び京都に入って返り咲く。一方、政長は面白くないわけで、御霊神社で畠山両軍が刃を交えることになる。これが応仁の乱の始まりって言われているね」
 「御霊の森での戦い(応仁元年[1467]1月18日)では義就が勝利して、政長は遠く奥州に逃れるわね。
でも、こうなると面白くないのが、政長を立てた細川勝元」
 「東軍細川陣営と西軍山名陣営の対立となるわけだ。
これに、畠山家と同じく管領家の斯波氏の、これまた同じく家督争いが加わってくる。
まず、庶流の大野持種の子だった斯波義敏が本家を継いだけれども、家の中をまとめることが出来ず、家臣の甲斐常治に追放される。
追放後に、同じく斯波氏家臣の朝倉孝景に擁立されたのが、渋川義鏡の子の斯波義廉。ここで、義敏と義廉という対立が生じるわけだね」
 「その追放された義敏は伊勢貞親の支援で復権。当然、義廉が今度は追放される。もう、何がなんだかという状況。
やっぱり武力派というか実力派の山名宗全は、有力家臣によって擁立された義廉を支援する。加えて、伊勢貞親の失脚で義敏は越前に逃亡」
 「こういう経緯から、応仁の乱が勃発すると義廉は山名陣営に加わる。だけど、義廉を擁立していた朝倉孝景は細川方に付く。
最初は山名陣営だったのだけれども、越前支配と引換に細川方に願えるわけだ」
 「もう、本当にこうなると何がなんだか。
これに加えて、義政に乞われて将軍職を約束されて還俗していた足利義視が、義政に実子(後の足利義尚)が誕生したことで、複雑な地位に置かれるという要素も加わるのよね」
 「管領畠山家と斯波家の家督争いに将軍家の家督争いが加わって、細川勝元と山名宗全を軸として戦いが繰り広げられるということになるけどね。
ここに、伊予における河野通春と細川勝元との争いで河野軍を支援した大内政弘が山名方に付いて大軍を率いて京都に入ったり...」
 「将軍義教を暗殺して山名宗全に討伐された赤松満祐の一族である赤松政則が南朝に対する戦いでの功績によって、細川勝元の後押しで復権したことも、細川と山名の対立の原因の一つになっている」
 「それ以外にも、いっぱいあるけど、つまりは日本中が2つの陣営に分かれて戦争をしたということだね。
細川に付いたか、山名に付いたのかっていうのは、必然じゃなくて偶然とでも言うような、そういう状況だったわけだ。
応仁の乱は11年間も続いて、これを境に幕府は有名無実化の度合いを益々強めて、時代は下克上と形容される戦国時代に突入していく」

[参照]美濃の乱