承久の乱
 「早すぎたリベンジというべきかしら。それとも、坂東武士団の団結の確認とでも言うべきかしら。坂東武士団、鎌倉武士団と呼んでも良いけど、鎌倉3代将軍実朝が暗殺されて、終に坂東武士団の政権を打ち立てた源頼朝の血を引く人物がいなくなってしまうという政権最大の危機に際しての朝廷と幕府側の戦いが承久3(1221)年の承久の乱と言えるでしょう」
 「結果として見るなら、朝廷側は政権が源将軍家だけによって支えられているのではなくて、坂東武士団という多くの武士達に成り立っている連合政権なんだっていうことを軽視したんだろうね。
実朝の死で、源将軍家の血筋が途絶えたのならば、政権を倒すのは難しくないと」
 「そうでしょうね。
確かに、鎌倉幕府にとって、源将軍家の血統が断絶してしまったということは、政権最大の危機だったには違いないわ。
幕府の運営は執権北条義時が仕切ってはいたけど、将軍がいないということは大きい」
 「後に大きな力を確実なものとする北条家だけど、この時は、まだ十分な政治的な力を持っているとは言えないからね」
 「鎌倉側は朝廷側に後鳥羽上皇の皇子を迎えようとする。話は纏まりかけたけど、密かに倒幕の意思を持っていた後鳥羽上皇は、結局は話を無かったものにしてしまう」
 「それだけじゃぁないよね。
この当時、坂東武士団の内部にも、幕府を樹立する時には大きな役割を果たしながら、政権の中枢からは疎外されている一族がかなりあった。
そうしたところからも幕府に対する不満が出てくる。そこを後鳥羽上皇は見逃さなかった」
 「加えて、後鳥羽上皇の愛人の伊賀局の所領である摂津国長江・倉橋両荘の地頭職改補問題なんていうややこしい問題もあった」

[後鳥羽上皇]

 「いよいよだ。と後鳥羽上皇は判断する。
戦いの準備のために、順徳帝が皇子に譲位し、仲恭帝を立てる。これで、順徳帝自ら戦列に加わることが出来る。
さらに、後鳥羽上皇が鳥羽離宮内城南寺の流鏑馬を行うという触れを出して大和・山城・近江の武士を集めに掛かる。流鏑馬の的は鎌倉と言わんばかり」
 「京都にあって、鎌倉と親しかった西園寺公経、実氏親子が朝廷によって捕縛。
さらに、上皇の呼びかけに応じなかった京都守護・伊賀光季を上皇方の藤原秀康が襲撃し光季を自害させる。これで、京都から主だった鎌倉方を駆逐。
そして、北条義時を追討すべしという院宣を出すことで倒幕の姿勢を明確にする」
 「上皇の使節として押松が鎌倉に赴くけど、時を同じくして鎌倉に上皇謀反、伊賀討伐されるの報せがもたらされる。
ここで、幕府は軍議を開き、大江広元の進言によって足柄峠で上皇軍を迎え撃つのではなく一気に京都を制圧するという方針を固めるわけだ。
尼将軍北条政子の演説も坂東武士団、つまり御家人達の心を改めて団結させるのに役立ったかもしれない。
北条義時による遠江以東の御家人に対する奉書に応じて大軍団が組織される」
 「北条時房・泰時ら率いる東海道軍が10万、武田信光・結城朝光ら率いる東山道軍が5万、北条朝時・結城朝広ら率いる北陸道軍が4万。なんと合計19万の兵力が京都へ攻めあがる。
これに対して朝廷軍は、何と、平将門討伐の故実に倣って藤原秀澄に兵を与え美濃国の不破の関を固めた。
そうそう、押松は義時の返事を持って京都に送り返されている。で、鎌倉は本気だぞー、物凄い軍勢で攻めてくるぞーって」
 「その時には、北条朝時・結城朝広らの北陸道軍は越後国府に展開を完了。
朝廷軍は北陸を制圧するために、宮崎定範、仁科盛遠らが7千騎を率いて京都を発つ。
続いて、幕府の東海道軍が尾張一宮に展開。東山道軍も進撃を続ける」
 「その東山道軍が木曾川の河合、大井戸で朝廷方の山田重忠と刃を交える。朝廷軍は奮戦するも圧倒的武力によって壊滅。
さらに、越中・加賀では北陸道軍と宮崎定範・仁科盛遠ら朝廷軍が対戦。こちらも総崩れ」
 「東海道でも北陸道でも敗れ、幕府軍は騎虎の勢いで京都に迫るという報せを受けた後鳥羽上皇は仲恭帝、二上皇を従えて尊長法印押小路河原邸へ避難。
早くも逃げの姿勢になってしまう。
その後、比叡山に向おうとするけど、延暦寺は上皇らを匿うことを拒絶。結局は高陽院で指揮を執る。
藤原忠信・秀康に命じて三穂崎、勢多、真木嶋、芋洗、淀を固めて幕府軍の進軍を阻もうとする」
 「ところが、幕府軍はじりじりと包囲網を狭めていくのよね。
京都への入り口には宇治川が天然の要害となっているけど、ここも幕府軍の芝田兼義、佐々木信綱、中山重継などが渡ることに成功すると、もう幕府軍の京都進撃を阻むものが無くなってしまう」
 「朝廷側は、源有雅、高倉範茂、安達親長らは逃亡。 藤原朝俊、八田知尚は戦いに敗れて落ちる。更に三浦義村の弟の胤義は木島で、墨俣を固めていた山田重忠は嵯峨・般若寺で自害。藤原秀康、その弟である季澄は河内で幕府軍に捕縛され処刑される。
そして、幕府軍は因縁の地、六波羅に入る。
もうこれで戦いは終結だ」
 「戦後処理は断固としたものになったわね。
皇室は死刑を免れたものの、中心人物である後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へという三上皇配流ということになる。
朝廷もこれほど厳しいものになるとは考えていなかったんじゃない?
さらに、仲恭帝を退位させ、後高倉法皇の皇子である後堀河帝を擁立。つまり、幕府が天皇を決定するという前代未聞のことを行う」
 「坂東武士団の政権が実質的最高権力なんだって示したというわけだね」