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[恵美押勝の乱]
 「恵美押勝こと、藤原仲麻呂は藤原四兄弟の一人、武智麻呂の次男だね。長男の藤原豊成が南家を仕切っていたから最初は振るわなかった。兄の豊成は藤原四兄弟が相次いでこの世を去った後、たった一人で藤原一族を支えた人でもあるね。」
 「仲麻呂は、そういう兄がいたものだから、当初はあまりぱっとはしなかったわけね。もちろん、これは、仲麻呂の能力がどうのという問題ではないわ。それが、光明皇后のバックアップを受けてから急速に力を付けて行く。一方、兄の豊成は天平宝字元(757)年の『橘奈良麻呂の乱』に、第三子・乙縄が関与したとされ右大臣の職を解かれ左遷されてしまう。こうなると、今度は仲麻呂が藤原家を背負って立たなければならなくなるわけね。」
 「天平宝字2(758)年には大炊王(淳仁天皇)を擁立して、続いて大保(右大臣)に任命され恵美姓を下賜され、さらに天平宝字4(760)年には太政大臣にあたる大師に任命されるね。恵美押勝というのは、『汎く恵むの美もこれより美なるはなし』『暴を禁じ強に押し勝つ』に由来するんだよね。」
 「だいたい、そのあたりが藤原仲麻呂の絶頂期といえそうね。こうした藤原仲麻呂の権力の背景には常に光明皇太后の支えがあったわけよ。ところが、その肝心の光明皇太后が天平宝字4(760)年に亡くなってしまうのね。」
 「もう一つ悪い要素があるよね。孝謙上皇に信任されていた道鏡の存在。道鏡と孝兼上皇との関係は、宝字5年10月に病を得た孝兼上皇を道鏡が呪法によって治療したことに始まるんだよね。」
 「その前に、光明皇太后が亡くなった後の天平宝字7(763)年に藤原良継・佐伯今毛人・大伴家持らによるクーデーターが起きているわ。このクーデーターは押勝が自邸の敷地内に東西の高楼を構えて内裏に模し南門を城楼のようにしたことを憂慮した藤原宿奈麻呂は、佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らと謀って押勝暗殺を計画したものだったけど、事前に発覚して事無きを得ているわ。」
 「この時既に道鏡と上皇との関係が深くなってきているんだよね。そして、天平宝字8年に、仲麻呂は道鏡が先祖に当たる物部弓削守屋大臣を継ぐことを企んでいるとして、道鏡の排斥を求める。だけれども、逆に孝謙上皇はこれを仲麻呂の謀反として仲麻呂排斥を決断し、授刀少尉の坂上苅田麻呂と蝦夷の族長の授刀将曹牡鹿嶋足を派遣して仲麻呂一族の官位を剥奪するのね。」
 「上皇と仲麻呂の全面対決か。仲麻呂も黙って討たれるのではなく、太政官印を奉戴して宇治から近江へと一先ず退却、氷上塩焼を天皇に擁立し諸国に下知を出す。この時に、息子の真先・朝猟などに親王級である三品に叙している。こうなると、もう仲麻呂は天皇を凌ぐ地位にあることを明確にしている。単に、孝兼上皇からの反撃をかわすための交戦ではなくなっている。」
 「だけど、上皇側に愛発関を固められて上京できなくなってからは、旗色が段々と悪くなっていくわね。三尾の崎の合戦では藤原蔵下麻呂の追討軍と正面から当たって敗走。遂には、一族は琵琶湖上で石村石楯によって水上の露とされたわ。」
 「一族の中では、唯一、刷雄だけが仏門にあったことによって隠岐国配流にされたのに留まったわけだ。この後、すぐに道鏡は大臣禅師に任命、仲麻呂が擁立した、淳仁天皇も廃位され淡路へ幽閉、孝謙上皇が称徳天皇として重祚して道鏡とともに権力を手に入れることになる。」
 「恵美押勝の叛乱が鎮圧された後に、孝兼上皇は中宮院を包囲し、淳仁天皇を無理に退位させた上で『淡路国公』の称号を与えて淡路に幽閉したのね。可哀想に、淳仁天皇は幽閉先からの脱走に失敗し、その直後の天平神護元(765)年10月22日に亡くなっているわ。酷いことに、この帝には追号がなされずずっと『淡路廃帝』と呼ばれつづけて、『淳仁天皇』と諡名されたのは、なんと明治3(1807)年のことよね。」