5月27日(月曜日)
父の信長が不慮の事故で亡くなった後、共同相続人である三男の神戸(織田)信孝が勝手に単独所有の登記をしてしまい、父親から相続した不動産全部を勝手に柴田さんに譲渡してしまい登記も移転してしまいました。
柴田さんから不動産を取り戻すことは出来ないのでしょうか。
(伊勢在住、北畠信雄さん)

[石橋君] 「北畠さんは登記を持っていないわけですね。柴田さんに自己の持分を対向できるんですかね」
 「弟の神戸さんは北畠さんの持分については無権利者だわ」
[石橋君] 「その無権利者から不動産を譲り受けた譲受人の柴田さんが北畠さんの持分を承継取得するということはないわけですね」
 「加えて、登記には公信力はないと考えられるから、神戸さんの登記を信用したというだけでじゃ柴田さんは権利を取得できないね」
 「それに、民法177条の『第三者』っていうのは、当事者とその包括承継人以外で登記欠ケツを主張する正当な利益を有している人に限られるわ」
[石橋君] 「つまり、無権利者は含まれないわけですね」
 「だから、北畠さんは自分の持分については登記がなくても柴田さんに対抗できるね」
[石橋君] 「神戸さんの持分については神戸さんのものですから、神戸さんから譲り受けた柴田さんのものですね。ということは、北畠さんと柴田さんの共有ということになりますね」
 「でも、神戸さんが不動産を登記したという時点で神戸さん単独所有となって、柴田さんは北畠さんの持分も承継取得するという考え方もあるわ」
[石橋君] 「共有持分の弾力性(民法255条)を根拠とする考えですね」
 「柴田さんが悪意の場合まで保護する必要はないよね。それに、共有持分の弾力性は他の、北畠さんのような人ね、共有者が持分を放棄した場合とかに限られるべきだね」
 「相続人がいない場合もね」
 「うん。柴田さんの保護について考えると、柴田さんの保護は柴田さんが善意の場合だけ考えればいいわけでしょ」
[石橋君] 「北畠さんに帰責事由がある場合に、民法94条2項類推によって柴田さんは保護されるってわけですね」


5月26日(日曜日)
五州の太守龍造寺氏
 「龍造寺というと、弘治・永禄年間(1555〜70)に九州で大友・有馬と覇を競った一族だね。というよりも、鍋島家との関係のほうが有名かな」
 「弘治・永禄年間の時点では、龍造寺一族は大内・毛利連合軍側、大友・有馬連合軍は少弐氏再興を大義として臨戦状態といったところね」
 「龍造寺はもともと少弐氏の配下だよね。少弐と大内の争いで少弐一族方横岳、筑紫、朝日諸氏が大内に寝返ったときも少弐についている」
 「そうね。天文3(1534)年に少弐資元が大内軍によって敗死させられた後も、少弐・千葉・龍造寺三家体制を確立して少弐氏の跡を狙う有馬晴純に対抗しようとしているわ」
 「その龍造寺氏がなぜ大内侵攻軍陣営に着くことになるのかな」
 「このあたりが少し複雑よね。多久で大内軍に破れた少弐資元の子の冬尚(ふゆひさ)が一旦は大友義鑑の庇護を乞うのだけれど、結局は水ヶ江龍造寺の家兼を頼るのね。そして、執権に家兼の子の家門を任命するの。ここで問題は江上元種馬場頼周(よりちか)を補佐としたことね」
 「前後するけど、それは少弐・千葉・龍造寺三家体制を確立する前だね」
 「そう。そして、このモザイク連合が一気に崩壊するのよ」
 「龍造寺一門滅亡の危機に瀕すという、あれだね」
 「馬場頼周が冬尚が有馬と松浦党に働きかけて挙兵させ、龍造寺氏を誘き出して討ち取るという凄まじい戦いが行われるのよ。この戦いで、龍造寺一族はほぼ壊滅してしまう」
 「かろうじて、家兼こと剛忠鍋島清久に助けられて戻ることができて、一族を危機に追いやった馬場頼周を討ち取っているんだね」
 「ここで、いよいよ五州の太守龍造寺隆信の登場ね。戦死した周家の子の隆信、当時は胤信といったけど、この胤信が剛忠の跡を継ぎ水ヶ江龍造寺家の当主となるの。でもね、龍造寺の本家は大内方で肥前守護代に任命されていた村中龍造寺家でしょ」
 「そこで、運命の女神が胤信に微笑む」
 「村中家当主の胤栄(たねひで)が病死。胤信がその妻を迎えて総領家となるのね。水ヶ江龍造寺村中龍造寺とは違って少弐方だったけど、その少弐に族滅させられそうになったわけで、何の躊躇もないわね」
 「これだけでも劇的だけどまだ龍造寺家の支配は安泰とは言えないよね。頼みの大内義隆が配下の陶隆房に討ち取られるでしょ」
 「毛利元就が台頭する契機となる戦ね。この混乱に乗じて、大友義鎮(よししげ)が龍造寺鑑兼に叛乱を起こさせるのよ」
 「加えて、再興を願う少弐冬尚が舞い戻って龍造寺家と対峙するんだね」
 「結局のところ、龍造寺鑑兼は追放され、胤信が基盤を固めることになるわけ」
 「そして、弘治・永禄年間以降に龍造寺胤信冬尚を討ち、攻め入る大友を肥前から駆逐し、大村氏諫早西郷氏を服属させ、」
 「大友宗麟(義鎮)が島津義久耳川合戦で敗北すると筑前の一部を攻め取って、『歴代鎮西要略』にいう『旗下に属し、その指揮に従う兵馬20万騎に及ぶ』と称される五州の太守となるのよ」
5月25日(土曜日)
東久邇 稔彦
明治20(1887)年12月3日生-平成2(1990)年7月20日没

 「東久邇宮は始めての皇族首相ね。久邇宮(中川宮)朝彦親王の第9子で、明治39(1906)年に東久邇宮家を創立しているわ。陸軍大学校を出て、第2および第4師団の師団長を歴任し陸軍航空本部長を経て、昭和14年には陸軍大将に任命されている」
 「その東久邇宮が8月17日に国内治安を維持するためという大義のもとで首相となるわけだね。そもそも、どうして東久邇宮というと、伏線があるね」
 「戦時中から皇族首相を待望する声があったのよね。昭和16年10月に当時の東条陸相近衛首相が推していたということが『木戸幸一日記』に出ている。宮も組閣を引き受けるに吝かではなかったけれども、木戸が『万一皇族内閣にて日米開戦に突入すのが如き場合には之は重大にて、……万一予期の結果を得られざるときは皇室は国民の怨府となる虞あり』として、皇族が首相になることに異議を唱えたので流れたわけね」
 「その意味でいうと、戦後は木戸の心配した事態はなくなるから、かえって国民の団結の象徴として皇族が首相となる意味が大きくなったわけだ」
 「宮に課せられたものは、第1に国体の護持、第2に戦争責任が天皇に及ばないようにすること、第3に占領軍の無血占領を可能にすることね。こうしたことは皇族でなければ遂行しえない課題とも言えるわね」
 「8月28日の記者会見で『全国民が総懺悔することが、わが国再建の第一歩であると信ずる』との発言で物議を醸したことでも有名だね」
 「宮は宮なりに一生懸命だったのだろうけど、マッカーサーによる『政治的・宗教的・民権の自由に関する覚書』が出ると、もはや自分に与えられた使命を全うすることが不可能になり辞任するわね」
 「心中いろいろとあったのだろうね。それが後の禅宗ひがしくに教創設に繋がっていくのかもしれない」

 内閣総理大臣の権能