立川氏

 普済寺の寺域は、かつてこの辺りを支配下に治めていた武蔵七党日奉(ひまつり)流西党立河氏の居城の跡として知られている。寺の山門を潜り、本堂に進むと、脇に一際大きな木が聳(そび)えている。その大きな木の立つところに目を凝らすと、土塁であることがすぐに分かる。かつて、この地が城屋であったことを示すのはただこの土塁と伝説だけといえる。
 また、定かではないが墓地の北辺には立河合戦の犠牲者を弔ったものとも、立河一族の墓とも伝えられる板碑と塚が残されている。
 立河一族は関東公方足利持氏に組し上杉禅秀の乱(1416)で活躍している。しかし、その後に永享の乱(1438-39)で足利持氏が関東管領上杉憲実、室町将軍足利義教に敗れると没落する。立河氏は一時は立川のみならず、対岸の土淵郷の地頭職も有していたが、これらを失ったものと考えられる。
 このことは、立川一帯が、鎌倉公方足利成氏と山内・扇谷両上杉家が刃を交えた享徳4(1455)年の第一次立河原合戦の主戦場となったにもかかわらず、立河氏の名が挙げられていないことからも伺える。
 加えて、長享元(1487)年には扇谷・山内両上杉軍が激突した長享の乱の際にも、立河原は主戦場の一つとなっている。しかし、この際にも立河一族の名は出てこない。
 立河氏が歴史の表舞台に再登場するのは北条氏康が扇谷上杉氏を滅ぼした後のこととなる。
 この時点で、普済寺城を(再)構築したのだろう。
 しかし、その復活も長くは続かなかった。立河一族は天正18(1590)年の八王子城落城によって父祖伝来の地である立川を離れる。
 その後の立河氏がどうなったのかは長らく伝説の域を出なかったが、立川市史編纂の過程で大谷光男氏により水戸藩士となっていたことが明らかにされた(立川市史)。これは、八王子城落城の際に守将城代横井監物が逃亡の後も城を死守すべき奮戦した中山勘解由家範のなせることとされる。すなわち、徳川家康は八王子城の興亡を聞き、中山勘解由家範の子と弟信吉を召抱えた。この中山信吉(備前守,後に家老)が徳川頼房の臣となり八王子遺臣17騎を与力としたのである。この八王子遺臣17騎に立川宮内が含まれていた。


玄武山普済寺]
 眼下に多摩川と残堀川を望む高台に位置する臨済宗の寺。
 この寺域は、中世において武蔵七党の1つ日奉ひまつり氏の支族の立河氏が居城を構えたところであり、現在でも本堂の前と裏側に立河城の土塁を留めている(写真右下)。
 寺の創建は、文和2(1353)年に立河一族が建長寺の物外可什を開山として招いたことによる。

この一帯は立河一族の墓とも立川合戦の犠牲者を弔ったものとも伝えられる(社務所話)。板碑の紋は立河氏のものである。