[ 禅 宗 ]

 「禅宗というと、臨済宗と曹洞宗、それから黄檗宗。」
 「臨済宗と曹洞宗は大まかに言って、鎌倉時代の成立だけど、黄檗宗は承應3(1654)年の黄檗宗隱元の来朝にその起源を持っているから江戸時代の成立という点で異なるよね。それに、黄檗宗は明治9年までは臨済正宗黄檗派という名称を用いていて、名称上は臨済宗の一派だったことになる。」
 「臨済宗は鎌倉時代といったけど、もともと中国の宋で成立した臨済宗を日本に伝えたのは栄西(保延7(1141)年〜建保3(1215)年)。
 お茶で有名なあの栄西。『喫茶養生記』を著し、お茶を日本に広めた人よ。」
 「でも、臨済宗が日本中に広まったのは、『応燈関の法灯』の流れ、つまり大応国師(南浦紹明) 、大燈国師 (宗峰妙超) 、関山慧玄(妙心寺開山)の日本臨済禅の三師以降だね。
 時代としては、鎌倉末期から室町時代にあたる。」
 「臨済宗の中で最も大きな宗団は臨済宗妙心寺派だけど、室町時代に妙心寺派を一大勢力に仕上げたのは雪江宗深。
 その他にもいろいろな宗派があるけど。
特徴としては、『不立文字、教外別伝』ということになるかしら。」
 「悟りの境地は、言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で以心伝心というものだね。
 曹洞宗との違いということで特徴を挙げると『公案』が挙げられるよね。
曹洞宗は『只管打坐』だから。
 そもそも、日本に伝わる以前の段階から、慧能の弟子で行思の流れから曹洞宗、懐譲の流れを汲む一派から臨済宗が生まれたという経緯があるから、禅風が違っていたことになるんだ。
 で、臨済宗のうち最大と言われるのは妙心寺派だけど、その他にも、そもそも臨済宗を日本に伝えた栄西が開いた建仁寺、無関普門が開いた絶景かなの南禅寺、夢窓疎石 (1275〜1351) が開祖の天龍寺にけんちん汁で有名な建長寺がある。
 建長寺は建長5(1253)年に北条時頼が宋から蘭渓道隆(大覚禅師)を招いたのが始まりで、鎌倉五山第一位だね。」
 「それから、宗峰妙超 (大燈国師)の大徳寺に、無学祖元の円覚寺、応仁の乱の舞台となった上御霊の森の近くにある相国寺。
 相国寺は天龍寺と同じく夢窓疎石を開山としているわね。」
 「ちなみに、鎌倉五山というと第二位以下は円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺となるね。
 京都では天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺が五山になるね。
鎌倉五山はいうまでもなく鎌倉時代に定められたけど、京都のほうの五山はが契機で定められた。五山には天下僧録司が出仕するという蔭涼軒制が決められているよね。
 それから、無関普門の南禅寺は別格で五山の上に位置付けられるけれども、五山は一応頂点であって、五山の下には京十刹として、等持寺、臨川寺、真如寺、安国寺、宝幢寺、普門寺、広覚寺、妙光寺、大徳寺、龍翔寺が置かれた。」
 「五山というのは仏陀ゆかりの天竺五山に因むとされているわね。
 臨済宗と双璧をなす曹洞宗は永平寺の開祖の道元禅師(正治2(1200)年-建長5(1253)年)。
 この道元禅師は内大臣久我通親の子だと言われているから出家する以前にかなりの身分だったことになるわ。もっとも、時代は源 頼朝の開幕によって本格的武家政権へと移っていっていたから、位は高くともということはあったかもしれないけど。
 ともかく、この道元禅師が開いた曹洞宗は、「行持綿密」、「威儀即仏法」といって、日常生活の細かい点に至るまで厳格に規定されるものだったために臨済宗のようには中々広まるということはなかったのよね。」
 「そうだね。そこに、また道元の理想の高さというものが表れてもいるような気はするけどね。本格的に曹洞宗が広まったのは能登に総持寺を開いた瑩山紹瑾(文永5(1268)年-正中2(1325)年) 以降になる。
 この總持寺は明治時代の火事が原因で横浜の鶴見に移っているけど、前田利家が伽藍を整備したり、慶長15(1610)年にはまつが発願して山門を竣工するというように、加賀前田家の手厚い保護を受けて繁栄した寺。
 曹洞宗は現在でも、道元を高祖、瑩山を太祖として、永平寺と鶴見総持寺の二大本山制を採用しているんだ。」
 「黄檗宗は臨済宗や曹洞宗とは色合いが異なるわね。
そもそも、長崎に居住していた中国人が江戸時代に三福寺と呼ばれる福済寺、崇福寺、聖福寺の3寺院を立てたのが始まりよね。
 そして、承應3(1654)年の黄檗宗隱元来日を契機として、臨済宗や曹洞宗に大きな影響を及ぼしていくようになるわけね。
 黄檗宗は日本の禅宗の起源である中国の臨済宗の流れをそのままの形で伝えたために、その当時の臨済宗と曹洞宗の2宗派に大きな衝撃を与えたことはもちろんだけど、その後に至ってもずっと影響を与えつづけたわ。」
 「隱元といえば、長崎の崇福寺が有名だけど、黄檗宗の総本山は京都の萬福寺だね。」