藤原北家

藤原不比等の三男の宇合(694-737)を祖とする藤原一門。宇合が式部卿であったことに由来する。宇合は遣唐副使として718年に唐に赴いた後、719年に常陸守および式部卿に任じられた。陸奥で蝦夷の反乱が勃発すると持節大将軍として乱を鎮圧するという功績も挙げている(724年)。長屋王の変の際には王の屋敷を包囲し王を死に追いやった。

宇合の子の広嗣(-740)は橘諸兄・吉備真備と対立。太宰少弐に左遷(738)され、叛乱を起こし斬首された。広嗣の乱によって式家は衰退を余儀なくされる。

広嗣の弟の良継(716-777)も広嗣の乱に連座し伊豆へと配流処分となるが赦免。746年には従五位下にまで復帰する。しかし、同じ藤原一族の北家の藤原仲麻呂との政治闘争に敗れ一時は官位剥奪処分となる。運命は分らないもので、恵美押勝(仲麻呂)の乱の平定によって政界に再び復帰。770年には参議となり名を宿奈麻呂から良継と改めた。良継は弟の藤原百川(732-779)らとともに、称徳天皇崩御後に白壁王擁立に奔走し道鏡を失脚へと追いやった。

こうして、式家は光仁天皇の即位に貢献したことから、光仁天皇と桓武天皇の信任を勝ち取った。良継の子の乙牟漏(760-790)は桓武天皇夫人となって平城天皇、嵯峨天皇を産んでいる。また、一族の種継は長岡京造営を任されるなど隆盛を欲しいままにするも、平城天皇の尚侍となった藤原薬子が嵯峨天皇に叛旗を翻したことを契機として、百川の子の藤原緒嗣の後は家勢が傾いた。