安東

安東家は俘囚の長と呼ばれた安倍貞任の遺児高星丸を祖と仰ぐ。

安倍家滅亡後、高星丸の子である堯桓が津軽の地藤崎に本拠を構え、安東家を創始するに至ったという。

しかし、『保暦間記』によると、得宗領だった藤崎の地に北条義時の代官安東五郎が赴任し安東家の祖になったとされる。

ともあれ、藤崎を本拠として安東家は周囲に勢力を拡大していく。

鎌倉時代、安東家は幕府から蝦夷管領という地位を得て、幕府の蝦夷支配を一手に担う。

利権のある所に争いは付き物で、元亨2(1322)年に季長と季久との間で嫡流を巡る戦闘が始まる。鎌倉幕府は季久を蝦夷管領に任命し、季久もこれを受けて宗季と改名し安東宗家を継いだ。面白くないのは前の蝦夷管領季長。幕府の判断に納得する訳もなく、外浜の内末部と西浜の折曾関に軍を留めて対立した。これが世に言う「津軽大乱」。

結局は両者の間で和睦し、宗季がそのまま安東宗家を相続する。

これで安泰かと思われた安東家だが、康季(泰季)の代に再び危機に見舞われる。

永享4(1432)年、三戸から津軽を狙う南部家と戦いとなり、惣領康季は南部義政の軍に敗れて、本拠地十三湊から蝦夷嶋へと逃れる。

室町幕府も名門安東家に配慮し、南部家との仲を周旋。これによって一時は本拠地の十三湊に戻ってくる。しかし、再度、南部家の攻撃を受けて蝦夷嶋に逃れる。その後も康季は本領津軽への復帰を企図するが劣勢を挽回することなく文安2(1445)年にこの世を去る。不幸は続き、嫡子義季も享徳2(1453)年に亡くなり、ここに名門安東家の嫡流は途絶える。

そして、安東家を継承することになるのが、潮潟安東家という安東家の庶流に生まれた政季。

この辺りは、前九年の役(永承6[1051]-康平5[62])で戦死した藤原経衡の子として生まれ、その戦いで敵対した清原一族のもとで育てられ、後に後三年の役(永保3[1083]-寛治元[87])で清原一族に代わって藤原三代の基礎を作った藤原清衡の歩んだ道と似ている。

安東宗家が十三湊を追われて以後、安東政季は津軽一帯を支配下に組み込んだ南部家によって八戸で庇護下に入る。そして、南部家の取立てによって田名部に所領を安堵されるまでに至る。南部家側としては、安東宗家を滅亡させたことで全て終わったと考えていたに違いない。

しかし、庶流とはいえ誇り高き安東の血を引く政季にとっては戦いは終わってはいなかったのである。嫡流である義季が亡くなった翌年の享徳3(1454)年、茂別八郎(式部大輔)家政、武田信広、河野政通、相原(粟飯原)政胤らを率いて田名部を引き払い蝦夷嶋に渡る。

宗家義季の居た蝦夷嶋に渡ることで、南部家の傘下から出ることと、安東宗家の後継者であることを宣言したのである。

ここに再び安東家と南部家との熾烈な戦いが繰り返される。

政季にとって蝦夷は一時的な地であったことは言うまでもない。目的はあくまでも父祖伝来の地である十三湊。

これは、政季が秋田に根付いた庶流の湊安東家の招きに応じて秋田は檜山の地を最終的に本拠地としたことからも伺える。

政季の系統を檜山安東家と呼ぶが、政季を呼び寄せた湊安東家の家系が断絶したことから檜山安東家が湊安東家をも支配下に治め、秋田家を形成した。