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[天皇家(神武-称徳)]
系図として神話時代の神武帝から掲げてあるが、実在したと考えられているのは、「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」という諡号を持つ第10代崇神帝からとされる。崇神帝は本拠地を三輪山の麓とし周辺豪族を纏めて大和に連合王国を形成したとされる。
本拠地を三輪に置いたということから、崇神帝から垂仁、景行、成務、仲哀帝までは三輪王朝と呼ばれる。
または、崇神帝の和風諡号が「御間城"入彦"五十瓊殖」、垂仁帝が「活目"入彦"五十狭茅」とされることから「イリ王朝」とも言われる。
垂仁帝と景行帝の間には断絶があるとされている。これは、日本書紀において、景行帝の箇所に通例とされる天皇の号がなく、単に大足彦命とあることも皇統が途絶えた可能性を示唆している。そこで、垂仁帝の後に狭穂姫を皇后として生まれた皇子、誉津別命(ほむつわけのみこと)が近江に、日葉酢媛を皇后を母とする皇子、五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)が大和に、大足彦尊(おおたらしひこ)は誉津別命の統治した近江の半分を統治したのではないかという説も出されている。
ともあれ、一応、応神帝からは河内王朝と呼ばれる王朝とされている。この王朝は、武烈帝の代で断絶し、大和地方以外から血縁のある継体帝を推戴し帝位を保った。基本的にこの継体帝の流れが現代にまで続いている。あるいは、継体帝から天智帝までを近江王朝と呼ぶ場合もある。





天智帝 -