御館

上杉謙信の死後に勃発した相続争い「御館の乱」の舞台となった場所.御館は上杉謙信が関東管領・上杉憲政を迎え入れるために造営.上杉憲政は1552[天文21]年に北条氏康の軍勢に平井城を攻められて越後に落ち延び、これを、当時、長尾景虎と名乗っていた上杉謙信が迎え入れています.

1578[天正6]年3月13日、上杉謙信が突如この世を去ると、上田長尾氏から養子となっていた上杉景勝と、小田原北条氏から養子となっていた上杉景虎との間で相続争いが巻き起こります.上杉景虎は北条氏康と遠山康光の妹との間の子であり、幼名を西堂丸・竹王丸といい、北条三郎の名前で知られる人物.

景勝は春日山城本丸などいち早く占拠し、三の丸にあった景虎を攻めます.これに対して、景虎は春日山城三の丸から御館に移って抗戦します.

但し、『上杉年譜』によると、景勝は謙信の遺言によって平和的に春日山城の本丸に入っています.その後、会津黒川城主・蘆名盛氏による侵攻に備えて景勝に無断で人質を集めた三条城主・神余親綱が景勝の奉行衆である、吉江信景、北条高定、三条信宗から詰問されるという事件が発生.小田切孫七郎率いる蘆名軍による侵攻が行われるが、神余親綱の行動は独断であるとして許されませんでした.蘆名軍の越後侵攻は食い止められたものの、上杉景勝と神余親綱の間に生じた信頼関係の亀裂は深まります.また、上杉景勝が景虎の庇護下にあった関東管領・上杉憲政の子・道満丸の引き渡しを要求したことで、上杉景勝と上杉景虎の間にも亀裂が生じます.そして、神余親綱が上杉景勝から離反し上杉景虎の元に走ります.栃尾衆を率いる本庄秀綱も景勝方の与板城を攻撃.御館に上杉景虎を招き入れます.こうした中で、上杉景勝による攻撃がなされたと考えられています.続いて、東条利長が春日町に放火し、堀江宗親とともに御館に入ります.北条城主・北条高広は、この間、奉行衆の北条高定は上杉景勝によって弑されています.これは上杉景虎に与しようとしたためと考えられています.

景虎側は、古志長尾家第7代で越後国栖吉城主・上杉景信、栃尾城主・本庄秀綱、北条城主・北条高広らの支持に加えて、小田原北条氏、北条氏と同盟関係にあった甲斐武田氏の後ろ盾があったために戦いを優勢に進めていました.しかし、北条氏は関東において佐竹・宇都宮軍と干戈を交えていたため越後への出兵が出来なかったために甲相同盟に基づいて武田勝頼に上杉景虎の支援を要請.この要請に応える形で武田勝頼は信越国境まで軍を進撃させます.

この時点で、御館には琵琶島弥七郎、桃井伊豆守、本田石見守が入ります.桃井伊豆守は大将として景虎軍を率いて春日山城に進軍.しかし、景勝方の反撃によって桃井伊豆守が討ち死にし、景虎軍も総崩れとなります.もっとも、上杉景虎の優勢は変わらなかったために、景勝は上野厩橋城主・北条高広父子、沼田倉内城主・河田重親への備えとして坂戸城将・深沢利重に上越国境警備を命じます.

ここに、武田勝頼が上杉景虎の支援のために侵攻してきたのです.春日山城の上杉景勝は万事休すの状況.ここで、上杉景勝は武田勝頼に東上野と信濃飯山城の割譲と1万石の譲渡を申し出ます.一兵も損なうことなく東上野を得ることに魅力を感じた武田勝頼は一転して景勝・景虎両軍の和睦調停へと舵を切ります.和睦調停中に、徳川家康が武田領の駿河田中城に侵攻.その対応のため、武田勝頼は調停が成立したとして軍勢を越後から引き上げることになります.

これに対して、北条氏政が氏照・氏邦に越後侵攻を命じ、北条軍が坂戸城攻略を開始.猛攻の中、景勝方の坂戸城兵はよく持ちこたえます.北条軍は冬になると雪への懸念から越後から撤兵.この隙を突いて春日山城の上杉景勝が孤立化していた御館に攻撃を仕掛け火をかけます.

こうして、当初は優勢だった上杉景虎は御館を落ち延びて鮫ヶ尾城へと落ち延びていく事となります.

上杉景虎方諸将

上杉景勝方諸将

2018_07_14

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.