宮城氏館

東京は足立区にある庶流宮城氏の居館です。

最寄駅は都電荒川線の小台電停なのでしょうが、梶原電停から歩きました。日暮里・舎人ライナーの扇大橋駅からも近いです。というより、扇大橋駅からのほうが近いかもしれません。

宮城氏は葛西清重(111-1238)の子朝清を祖とするとも、清重の4代後の豊島重信の子八郎重中を祖とするとも言われます。この宮城氏は足立区に伝わる足立姫伝説と関係があるとも言われています。

葛西朝清の子に葛西清員、豊島清房の養子となった豊島朝房、豊島清経の養子となった豊島泰清、葛西朝重、葛西清氏などがいることが知られてます。この辺りが豊島氏出身の葛西清重の子孫の豊島氏から出たのが宮城氏というややこしいことになっている原因です。

葛西氏にとっても宮城氏にとっても宗本家は豊島氏になります。その豊島氏は、1477年に山内上杉家の家宰の地位を奪われた長尾景春が関東管領山内上杉顕定に叛旗を翻した際に、石神井城主豊島泰経が長尾景春と義理の兄弟であった関係から挙兵します。これに対して、山内上杉家と同族である扇谷上杉家の家宰・太田道灌は江戸城、河越城、岩槻城を前線として叛乱の鎮圧に当たります。

豊島泰経は石神井城、弟の泰明は練馬城そして平塚城によって江戸城・河越城・岩槻城のラインを遮断。太田道灌は三浦義同、上杉朝昌、千葉自胤とともに練馬城を攻め、江古田原で両軍は会戦。この戦いで豊島軍は敗れ豊島泰明は討死します。兄の豊島泰経は石神井城に逃れるも、総攻撃を仕掛けられ落城。

石神井城を逃れた豊島泰明は平塚城に立て籠もるも、平塚城も落城。以降、豊島泰明は足立を経由して、下総の夏見城に逃れたと伝わります。

豊島氏は太田道灌との戦いによって本拠地を失い滅びました。しかし、豊島氏の庶流の宮城氏は太田氏に従うことで生き延びます。やがて、太田道灌が主君の扇谷上杉定正によって暗殺されると、太田道灌の嫡子の資康は山内上杉顕定のもとへと走ります。そして、太田道灌の養子資家は岩槻城を本拠地として、太田道灌の実子資康とは別の道を歩むことになります。扇谷上杉定正が1494(明応3)年に事故死し、三浦義同が三浦氏の家督を奪還したことで扇谷上杉家中の勢力図が変わると、太田資康は扇谷上杉朝良から帰参を許されます。これによって、太田資康は菅谷城から江戸城に戻ります。

このように、太田氏は岩槻太田氏と武蔵太田氏に分かれました。太田資康の次男の太田資高(1498-1547)は扇谷上杉朝興(1488-1537)を裏切り後北条氏2代・北条氏綱(1487-1541)に江戸城を明け渡します。もっとも、太田資高の子・太田康資(1531-1581)は上杉謙信に寝返りますが失敗し岩槻城主・太田資正を頼って落ち延びます。上杉謙信は太田資正・康資救出を里見義弘に依頼。これが原因で第二次国府台合戦が後北条氏と里見氏との間で勃発します。

この間、宮城氏は岩槻太田氏に従い、宮城政業は宮城館を去って岩槻に移ったとされています。1564(永禄7)年の第二次国府台合戦で岩槻城主・太田資正が北条氏康に敗れると、太田資正の子で出家していた太田氏資(1542-1567)が家督を約束されていた兄で梶原家を継いでいた梶原政景を追放し北条氏康の幕下に加わります。1567(永禄10)年、後北条氏第4代の北条氏政(1538-1590)は第二次国府台合戦の余勢を買って里見氏の重臣の正木時忠・土岐為頼を調略し、続いて、里見義弘の居城の佐貫城を奪うべく、三船山に軍を進め砦を築きます。この砦を里見義弘が攻撃。砦攻撃の報せを受けた北条氏政は太田氏資を伴って江戸湾を南下し佐貫城攻撃を仕掛けます。しかし、里見義弘の猛攻によって三船台の砦は陥落。後北条軍は総崩れとなり撤退。後北条軍退却の殿(しんがり)を務めた太田氏資は討死してしまいます。太田氏資に男子がいなかったために、氏資の娘を娶った北条氏政の三男北条国増丸(1563-1582)が太田源五郎として岩槻太田氏お継ぐことになります。北条国増丸が夭折すると弟の太田氏房(1565-1592)が岩槻太田氏を継ぎます。

岩槻太田氏に従っていた宮城政業は1589(天正17)年に亡くなったとされていますので、北条氏政の子の太田氏房の代まで生きていたことになりますが、宮城の地に戻ってきていたかは定かではありません。


2015年6月14日訪問

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.