田中城

静岡は藤枝のありますお城です.

今川家の家臣の一色家が築いた徳一色城が始まり.15世紀頃に今川家の命によって一色信茂が居館の北に築城した徳一色城[戸久一色城]が起源.

一色氏の没落後は由比正信が1万5千石の所領を得て城主となります[『今川氏諸家分限帳(1560)』].しかし,由比正信は1560[永禄3]年に桶狭間の戦いにおいて主君の今川義元と同じく戦没.長谷川正長[1536-1573]が城主となります.

1570[元亀元]年1月に武田信玄が花沢城を攻略した余勢で田中城を攻撃.長谷川正長は支えきれずに一党とともに遠江に落ち延び徳川家康の保護を受けるに至ります.1572[元亀3]年12月22日の三方ヶ原の戦いでは徳川軍として参戦し討死.その後,次男の伊兵衛宣次が徳川家康の小姓を務め,旗本となっています.その子孫が長谷川平蔵宣以.

田中城を占領した武田信玄[1521-1573]は武田四天王の一人で鬼美濃こと馬場信房[1515-1575]に命じて,大井川渡河地点に近い田中城を遠江攻略拠点とすべく改修.

城主として,同じく武田四天王の一人・山県昌景[1529-1575],続いて,板垣信安[-1575]を置きました.

武田信玄が死去し,1575[天正3]年の長篠・設楽原の戦いで武田勝頼[1546-1582]が織田・徳川連合軍に大敗すると,徳川家康[1543-1616]が二俣城を攻めると,城将・芦田信守[-1575]と子の依田信蕃[1548-1583]は半年にわたって持ちこたえています.芦田信守[-1575]が病死した後,降伏勧告に従って依田信蕃は籠城衆全員助命を条件に開城し退去.高天神城に移ります.その後,田中城の城将となります.

1582[天正10]年2月に織田信忠[1555-1582]が武田領に侵攻するのと連動して徳川家康が駿河に侵攻を開始すると,徳川家康に降伏した武田二十四将の一人・穴山梅雪[1541-1582]の勧告によって城将・依田信蕃[1548-1583]は田中城を開城.三河譜代の高力清長が城主として入ります.

ちなみに,依田信蕃は徳川家康の誘いを断り佐久の春日城に退去.本能寺の変の後,天正壬午の乱に際しては徳川家康方として北条家と戦い,真田昌幸を徳川方に引き入れています.1583[天正11]年2月21日に,北条氏直[1562-1591]方の信濃岩尾城城主・大井行吉[1542-1584]を攻略時に討死しました.

田中城は江戸時代には,桜井松平家,藤井松平家,北条家,西尾家,酒井家,土屋家,太田家,内藤家,土岐家と続き,1730[享保15]年に本多家が入って明治に至るまで藩主を7代務めました.

このお城は縄張り[敷地]が円型なのが最大の特徴.同心円状に本丸,二の丸,三の丸と配置され,その外側に水堀がありました.

ここまで駅から歩きました!

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.