高天神城

現在の静岡県掛川にある城で、武田信玄・勝頼父子と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げたことで知られているお城。

治承・寿永の乱に際して謂伊隼人直孝[嶺田井伊氏]が築城したのが始まりと伝わりますが詳細は不明。その後、土方義政、1413年頃には今川氏の家臣の福島助春が城代となっていたことが知られています。

1536年4月7日[天文5年3月17日]、駿河守護・今川氏輝[1513-1536/4/7]が急死。今川家の家督相続を巡って、玄広恵探[今川良真]と栴岳承芳[今川義元]のという弟同士が対立する花倉の乱が勃発。福島助春の娘が玄広恵探[今川良真]の母親であった関係から福島正成、福島助春らは玄広恵探派として戦います。しかし、花倉の乱は今川氏親正室の寿桂尼や室町幕府第12代将軍・足利義晴[1521-1546]の支持を受けた栴岳承芳[今川義元]の勝利に終わります。

この時、福島助春は高天神城を追われ、小笠原春儀が城代になったとされます。

信州深志城主小笠原修理大夫貞朝の長子の長高は、父貞朝が異腹の弟・長棟を寵愛したことから出奔。三河吉良氏、続いて、駿河今川氏を頼り、今川家の家臣となり馬伏塚城の城代として仕えました。その小笠原長高の子が小笠原春儀ということになります。

小笠原春儀の子・氏興は1560[永禄3]年に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られると、今川氏真を見限ります。そして、小笠原与右衛門を徳川家康へと派遣し徳川家康による今川氏真が籠城する掛川城への道を案内させます。さらに、徳川家康とともに小笠原氏興は掛川城に攻め寄せ今川氏真を降伏させます。

徳川軍の一員として小笠原氏興は金ヶ崎の戦い、姉川の合戦などにも従軍し活躍した後、馬伏城で生涯を閉じます。

1571[元亀2]年に武田信玄が遠江へと侵攻。高天神城を2万5千人の軍勢で包囲しますが、小笠原長忠は持ちこたえ武田信玄は撤退します。

1574[天正2]年に武田勝頼が捲土重来を期して高天神城に攻め寄せます。高天神城主の小笠原長忠は徳川家康に援軍を求めますが、徳川家康は信州から南下してくる武田の別動隊に備えていたために援軍を派遣することが出来ませんでした。徳川家康は織田信長に援軍を要請しますが、その間、高天神城は武田勝頼の猛攻に晒され、遂には、小笠原長忠[信興]は武田勝頼に降伏。一方、小笠原長忠[信興]の叔父の義頼[1535-1613]は一族を引き連れて徳川家康方に走ります。

1575[天正3]年に長篠の戦いで武田勝頼は惨敗。更に、二俣城、犬居城で徳川軍が反撃を開始。武田方の諏訪原城も徳川家康に落とされ、横須賀城など高天神城包囲網による締め付けが厳しさを増してきます。

1580[天正8]年に徳川家康は岡部元信が城将を務める高天神城の兵糧攻めを開始します。この頃、武田勝頼は駿河において北条氏政からの攻勢を受けていたことや、織田信長との和睦を考えていたことから高天神城への援軍を派遣しませんでした。

援軍が来ないことを知った岡部元信は城兵を率いて徳川方の大久保忠世の陣に突撃し討死。残りの城兵730余も討死という壮絶な最期で高天神城は落城という結末を迎えます。

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.