大阪冬の陣史跡廻り

現在見ることの出来る大阪城の天守閣は1931[昭和6]11月7日年の昭和復興天守ですが,ここから大阪冬の陣ゆかりの場所を歩いていきます.

大阪冬の陣は1614年12月19日[慶長19年11月19日]に元宇喜多家家老・明石全登[-1618]が守る木津川口砦を,徳川方の蜂須賀至鎮[1586-1620]が抜け駆け攻撃をしたことが戦闘の幕が切って落とされます.

先陣を務めるはずだった浅野長晟[1586-1632]は蜂須賀至鎮による攻撃を知って渡河を始めますが溺死者を出し進軍が出来ませんでした.

その間に,明石全登が不在だった木津川口砦は陥落.

徳川軍は大阪城に向けて進軍.対する豊臣軍は川岸の湿地帯であった今福村・鴫野村に柵を築き,矢野正倫と飯田家貞に守らせます.徳川家康は,今福柵攻撃に佐竹義宣指揮下の兵1,500を送ります.


[写真:佐竹義宣が陣を布いた今福の若宮八幡]

11月26日,佐竹軍は渋江政光[1574-1614]と戸村義国[1519-1671]を指揮官として出撃.第四柵まで攻め落とします.

この戦いで,矢野正倫と飯田家貞が討死.豊臣軍は木村重成[1593-1615]を派遣.さらに,豊臣秀頼[1593-1615]は後藤基次[1560-1615]を派遣.佐竹軍を第一柵まで押し返します.この戦闘で渋江政光は討死.佐竹軍先鋒は潰走状態に陥ります.

ここで,佐竹義宣[1570-1633]は対岸の鴫野に陣を構えていた上杉景勝[1556-1623],堀尾忠晴[1599-1633],榊原康勝[1590-1615]に救援を求めます.

上杉景勝は水原親憲を中州に派遣し,今福柵に鉄砲を放ちます.これによって,今福柵は徳川方のものとなりました.


[写真:今福柵の跡地]

佐竹義宣が苦戦していた頃,豊臣軍の守る鴫野柵を攻めていた上杉景勝.こちらも,戦闘の当初は鴫野柵を奪いますが,大野治長[1569-1615]が大軍を引き連れて防衛.激戦となりますが,上杉景勝は,一旦,兵を引き,かつ,二手に分けて大野治長を誘い込みます.勢いに勝る大野治長の大軍は押しに押したため,二手に分かれた上杉景勝の軍勢に正面と側面二手から攻撃を受けて撤退を余儀なくされていました.

ここに,今福柵を攻める佐竹義宣から救援要請が入ったのです.


[写真:上杉景勝が陣を布いた地に鎮座する八釼神社]


[写真:鴫野砦.現在は城東小学校になっています]


[写真:豊臣方の鴫野砦と徳川方の上杉景勝陣地の間の道路.陣地は鴫野砦陥落後に布かれたのでしょう.ともかくも,この道路の周辺で激戦が繰り広げられたことになります.]

2017年10月28日訪問.