[[ルーツ]]>[[北国諸藩]]
*有馬家(晴信系)
**肥前日野江(島原)藩
|20|100|200|300|c
||藩主|官位・通称|出自|
|初代|有馬 晴信 Harunobu|従五位下 修理大夫|有馬義貞の次男。&br;龍造寺隆信の圧力を受け従うが、島津義久の後援によって沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討つ。続いて、豊臣秀吉の九州征伐時に島津義久と袂を別って秀吉に従った。&br;文禄・慶長の役では小西行長軍に従軍。&br;関が原の戦いでは西軍に与するも西軍が敗れると寝返り、小西行長の宇土城を攻め、その功績によって旧領安堵。&br;マカオにて有馬家朱印船の水夫数十名がポルトガルのマードレ・デ・デウス号船員によって殺害。有馬晴信は家康の許可を得て長崎に寄航していたマードレ・デ・デウス号を撃沈。その後、本多正純の与力で目付役として派遣されていた岡本大八が旧有馬領の藤津・杵島・彼杵三郡の鍋島領の復帰斡旋の詐欺行為を働く。事件発覚後、岡本大八は火刑。有馬晴信も贈賄の罪によって改易され甲斐に流罪となり切腹を命じられた。この事件の裁決を行ったのが本多正純と大久保長安。|
|2代|有馬 直純 Hirotaka|従五位下 左衛門佐|有馬晴信の子。父・晴信に連座すべきところ、徳川家康の嫡男・信康の孫娘・国姫(桑名藩主本多忠政の娘)を正室としていたことから家督相続を認められる。|
**日向延岡藩 5万3千石
|20|100|200|300|c
||藩主|官位・通称|出自|
|初代|有馬直純 Hirotaka|従五位下 左衛門佐|有馬晴信の子。幕命により島原領内のキリスト教徒を弾圧。キリスト教徒の異母弟も殺害している。その壮絶な弾圧に耐えかね延岡への転封を願い出た(1614[慶長19])。1637(寛永14)年の島原の乱では幕命により4000余名を率いて旧領で戦う。|
|2代|有馬康純 Yasuzumi|従五位下 左衛門佐|有馬直純の長男|
|3代|有馬清純 Kiyozumi|従五位下 左衛門佐|有馬康純の長男。1690(元禄3)年、山陰・坪谷村一揆の責を受け無城大名に格下げ(一旦除封)。|

**越後糸魚川藩 5万石
|20|100|200|300|c
||藩主|官位・通称|出自|
|初代|有馬清純 Kiyozumi|従五位下 周防守|有馬康純の長男|

**越前丸岡藩 5万石
|20|100|200|300|c
||藩主|官位・通称|出自|
|初代|有馬清純 Kiyozumi|従五位下 周防守|有馬康純の長男|
|2代|有馬一準 Kazunori|従五位下 左衛門佐|有馬清純の長男|
|3代|有馬孝純 Takazumi|従五位下 日向守|有馬一準の長男|
|4代|有馬允純 Masazumi|従五位下 左衛門佐|有馬孝純の長男|
|5代|有馬誉純 Shigezumi|従五位下 左衛門佐|有馬允純の長男|
|6代|有馬徳純 Norizumi|従五位下 左衛門佐|越後高田藩主榊原政令の子。有馬誉純の四女・修敬院を正室とする。|
|7代|有馬温純 Haruzumi|従五位下 日向守|有馬誉純の二男戸田純佐の長男|
|8代|有馬道純 Michizumi|従五位下 左衛門佐|播磨山崎藩主本多忠鄰の二男|



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