[[南関東戦国大名家]]
**正木氏
**前史
-三浦時高は実子に恵まれなかったため、扇谷上杉高救の子・義同(道寸)を養子として迎える。『集成正木家譜』
-三浦時高に実子・弥次郎が生まれると義同(道寸)を疎外。
-1464(明応3)年、三浦義同(道寸)は義父である三浦時高を討ち取る。
-三浦時高の子・弥次郎高教は安房に逃れ里見成義に庇護され長じて正木時綱と称した。
**1508年 永正5年
-&color(Black,Fuchsia){正木通綱};が里見堯通の国衙奉行(家宰)として鶴ヶ谷八幡宮に棟札を奉納。
--正木氏には平群郡、朝夷郡を本拠とする内房正木氏という別系統がある。正木時忠は内房正木氏の流れを承継したと考えられる。内房正木氏には淡路守家がある。
**1552年 天文21年
-上総の真里谷武田氏が断絶し北条氏が所領を接収。
**1553年 天文22年
-4月
--北条氏による西上総・内安房猛攻によって内房正木氏の正木兵部大輔時治と正木淡路守吉晴の子・源七郎が里見氏から北条氏に鞍替え。
-佐貫城、天神山城、百首城が北条氏によって攻略される。
**1555年 弘治元年
-金谷城が北条氏によって攻略される。
-北条方の峰上城衆と長南武田豊信が安房長狭郡まで侵攻。
**1560年 永禄3年
-5月:北条氏が里見氏の本拠・久留里城を包囲。
-9月
--越後長尾景虎が関東に侵攻。
--北条氏が久留里城の包囲を解き退却する。
-10月:&color(Black,Fuchsia){正木時茂};を総大将とする里見軍が常陸国境に近い下総香取郡富田台に上陸し小見川城を取り立てる。
-12月:&color(Black,Fuchsia){正木時茂};が千葉氏配下の下総小弓城主・原胤貞を攻める。
**1561年 永禄4年
-3月
--&color(Black,Fuchsia){正木時茂};が千葉氏配下の上総東金城主・酒井胤敏、下総小金城主・高城胤吉、山室治部少輔を服属させる。
--&color(Black,Fuchsia){正木時茂};が葛西城を攻略する。
--香取郡大戸庄の矢作城主・国分氏を攻撃。
--長尾景虎(上杉謙信)が小田原城を攻撃。
--里見義堯・義弘父子とともに、&color(Black,Fuchsia){正木時茂};が上杉謙信の陣営に加わる。
-4月6日:&color(Black,Fuchsia){正木時茂};が死去する。&color(Black,Fuchsia){正木信茂};が家督を継ぐ。
**1562年 永禄5年
-3月19日:千葉胤富が小見川城奪還を目指して正木時忠と合戦に及ぶ。
***1563年 永禄6年
-北条氏康と武田信玄が上杉謙信方の武蔵国松山城を攻撃。里見義堯が嫡男義弘を援軍として派遣するも松山城は落城。
-9月
--里見氏配下の小田喜&color(Black,Fuchsia){正木信茂};が海上長谷新城を築城し一宮正木氏を城主とする(「海上年代記」千葉県の歴史』5九九五頁)。
-年末
--北条氏康の配下であった江戸城守将太田康資が同族の武蔵国岩付城主・太田資正を通じて上杉謙信への寝返るも失敗。太田康資は資正を頼って武蔵国岩付城に逃れる。
***1564年 永禄7年
-1月
--4日:上杉謙信から両太田氏救援の要請を受け里見義弘が国府台城に入る。千葉胤富も北条軍と連携して迎撃。
&color(White,Olive){第2次国府台合戦};&br;
|北条氏康|上杉謙信|
|&color(Black,Fuchsia){千葉胤富};|里見義弘|
|北条綱成&br;江戸城将&br;遠山綱景、富永直勝|土岐為頼(裏切)&br;小田喜&color(Black,Fuchsia){正木信茂};(戦死)&br;土気城主酒井胤治|
--里見義弘軍が北条軍に敗北。里見家家宰の小田喜&color(Black,Fuchsia){正木信茂};が討死したことにより、海上長谷新城も落城。勝浦正木氏が里見氏から離反し北条に与す。
***系譜
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