[[九州地方北部大名家]]
*少弐家
**事蹟
|100|50|400|c
|武藤資頼|1189&br;文治5|平家の家人で源氏方の虜囚として三浦義澄(1127-1200)に預けられていたが、同年、源 頼朝より赦免され御家人に取り立てられる。|
|~|1192頃&br;建久2頃|鎮西奉行(鎮西守護)天野遠景が鎮西御家人の反発によって解任。代わって、武藤資頼が大友能直とともに鎮西奉行(鎮西守護)として九州へ下向したと考えられる。|
|~|1195頃&br;建久6頃|筑前国守護職に任命される。その後、肥前国守護職にも任命される。|
|>|>|武藤(少弐)家は、筑前国、肥前国以外にも、豊前国、対馬国、壱岐国の合わせて三前二島の守護職に任命されていく。このうち、肥前、豊前は鎌倉幕府執権北条家一門に取って代わられていく。&br;鎌倉時代を通じて、多数の地頭職を手にしていた武藤(少弐)家は、肥前国内で久保(佐賀郡)、加茂(三根郡)、朝日(養父郡)、平井(杵島郡)、筑前国内で筑紫(御笠郡)、豊前国内で吉田などの庶家を分流させた。|
|少弐貞経|1333&br;元弘3|菊池武時らが後醍醐天皇の綸旨を受け、赤橋久時の子・鎮西探題北条英時を博多の探題館に討とうとする計画に当初参画。しかし、少弐貞経は、途中で離反し、島津貞久とともに、菊池武時、頼隆らは討ち取り、阿蘇惟直を矢部に駆逐。|
|~|~|鎮西探題北条英時は、一門の規矩高政を将として討伐軍を発し、菊池城、阿蘇大宮司館を攻撃、惟直は菊池武敏とともに日向鞍岡城に篭城。&br;これに対して、足利尊氏の挙兵を受けた、島津貞久、少弐貞経は鎮西探題北条英時を博多の探題館に討ち取る。|
|~|1335&br;建武2|【中先代の乱】最後の得宗北条高時の遺児北条時行が信濃諏訪家の支援によって蜂起。鎌倉から足利直義を追い出した。これに対して、京都から足利尊氏が後醍醐天皇に無断で鎌倉に出兵し鎮圧。その後も鎌倉に留まり後醍醐政権と距離を置く。&br;【箱根竹の下戦い】新田義貞の要請により後醍醐天皇は足利尊氏討伐を決定。新田義貞は尊良親王を奉じて鎌倉に進軍。途上、箱根竹の下で足利尊氏軍と激突。阿蘇惟時・上島惟頼・阿蘇品惟定らの阿蘇一族も新田軍として戦うも敗戦。この時、足利軍に少弐貞経は息子の少弐頼尚と少弐の主力軍を派遣。|
|~|~|【有智山城の戦い】「箱根竹の下戦い」で少弐家の主力が九州を離れている隙を突き、菊池武敏や阿蘇惟直が少弐家を攻撃。少弐貞経は有智山城にて自刃。|
|少弐頼尚|1336&br;元弘3|【多々良浜の戦い】菊池武敏は九州に上陸した足利尊氏、これを支える少弐頼尚と多々良浜で干戈を交える。戦力は菊池軍が優勢であったが、松浦党の裏切りなどがあり菊池武敏は大敗。友軍の阿蘇大宮司惟直とその弟・惟成が肥前天山で戦死。&br;足利尊氏は、一色範氏を残し(九州探題)、少弐頼尚と大友氏泰を率いて京都を目指した。|
|~|~|足利尊氏より筑前、豊前、肥後、対馬の四カ国守護職に任ぜられる。&br;しかし、足利尊氏は、一色範氏を九州探題に据えた。九州探題は鎌倉時代における鎮西探題と同様に少弐、大友、島津の九州守護三家の自由を奪う性質を持っており火種を残す。|
|~|1350-52&br;観応元-文和元|【観応の擾乱】足利尊氏の弟・足利直義派の上杉重能や畠山直宗が尊氏派の高師直・師泰の排除を計画。察知されて、攻撃を受けた足利直義は足利尊氏のもとに逃れ上杉重能、畠山直宗の配流と足利直義の幕政引退を受け入れ和睦。&br;ところが、上杉重能、畠山直宗が高師直配下によって暗殺されると、直義の養子で尊氏の実子・長門探題足利直冬が挙兵。足利尊氏軍に敗れ九州に敗走。&br;少弐頼尚は足利直冬を推戴。&br;足利直義は畠山国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経を組織し、関東において上杉憲顕が高一族の高師冬を討伐。足利尊氏が光厳上皇から直義追討令を得ると直義は南朝に下り、播磨光明寺合戦や摂津打出浜の戦いにおいて尊氏軍を撃破。尊氏は和睦を乞い、高師直・師泰兄弟は上杉能憲によって謀殺。&br;しかし、近江の佐々木道誉や播磨の赤松則祐が足利尊氏・義詮父子と謀って挙兵すると、桃井、斯波、山名を引きつれ鎌倉に逃亡。追撃する足利尊氏軍は駿河国薩埵山の戦い、相模国早川尻の戦いで足利直義を破り、鎌倉に幽閉した直義は毒殺される。&br;九州にあった足利直冬は養父・直義が亡くなったことで後ろ盾を失い九州を離れる。|
|~|1353&br;文和2|【針摺原の戦い】少弐頼尚は宮方と連合し九州探題一色範氏と干戈を交え大勝。|
|~|1359&br;延文4|【筑後川の戦い】少弐頼尚と大友氏時の連合軍が征西将軍宮懐良親王を奉戴する菊池武光と干戈を交え大敗。少弐頼尚の嫡男・直資、頼泰など一族28名が討死。&br;続いての合戦でも少弐頼尚は連敗し、本拠地・大宰府を菊池武光に占領され、大友家を頼って落ち延びる。|
|少弐冬資|1362&br;康安2|【筑前長者原の戦い】菊池武光に本拠地を奪われていた少弐冬資は室町幕府から派遣された九州探題斯波氏経に与力。斯波氏経は大友家と共同して筑前入りを目指す。ここに、菊池武光が阻止に乗り出し両軍激突。菊池武光の勝利に終わり、少弐頼資、対馬資俊、筑紫次郎らが討死。少弐冬資は再び大友家を頼って豊後に落ち延びた。|
|~|1370&br;応安3|室町幕府将軍足利義満と管領細川頼之は今川了俊を九州探題として派遣。12月に豊前門司に上陸。|
|~|1371&br;応安4|菊池武安軍を肥前で敗った九州探題今川了俊が大宰府を包囲。菊池武光は懐良親王(将軍宮)を奉じて筑後高良山に退避し征西府が崩壊。同年、戦傷がもとで菊池武光が死す。|
|~|1374&br;応安7|【筑後福童原の戦い】菊池軍は九州探題今川了俊に敗れ筑後高良山から菊池郡に撤退。|
|~|1375&br;永和元|九州探題今川了俊が菊池家殲滅のために山鹿地方に進撃。進撃に際して、島津氏久、大友親世、少弐冬資の九州三人衆に参陣を求めるが少弐冬資が応じなかったために殺害。&br;元来、少弐家は九州三守護家の筆頭を誇りとする家柄であり、伝統的に九州探題と対立してきた。そのため、了俊は早めに対立の芽を摘む行動に出たと言える。&br;漁夫の利を得た形の菊池武朝は奮戦にし今川了俊は肥前に撤退。|
|~|1378&br;永和4|九州探題今川了俊が大内義弘、大友、少弐、吉川、新納、橘薩摩の諸家を動員して、菊池家の本拠・隈部山城を攻撃。敗れた菊池武朝は懐良親王(将軍宮)を継いだ良成親王を奉じて八代城に落ち延びる。|
|少弐頼澄|1376&br;永和2|【大宰府有智山城の戦い】九州探題今川了俊に兄・少弐冬資を謀殺された頼澄は南朝に与した。これに対して、長門・豊前・周防守護・大内義弘(1356-99)が山口から九州に上陸し、豊後の大友親世の大軍によって少弐の本拠地・大宰府有智山城を包囲。少弐頼澄は肥前に逃亡。|
|少弐貞頼|1392&br;明徳3|【南北朝合一】|
|~|1396&br;応永3|今川了俊に代わって渋川満頼が九州探題に就任後、少弐貞頼、菊池武朝の追討を開始。少弐貞頼は大内義弘の子・教弘を討ち取る。|
|~|1399&br;応永6|室町幕府は大内義弘の勢力の拡大を危惧し、大内家と少弐に和睦を一旦は命令。しかし、九州探題渋川満頼は少弐貞頼、菊池武朝の追討を再開。幕府も大内義弘、大友親世に与力を命じた。但し、室町幕府将軍足利義満は大内義弘の勢力を削ぐ目的で、少弐貞頼、菊池武朝を密かに支援。ところが、結果として菊池武朝は島津師久のもとに落ち延び、少弐貞頼も落ち延びるという反九州探題側の敗戦に終わった。|
|~|1398&br;応永5|【九州南北朝合一】今川了俊解任後の九州探題渋川満頼と大内義弘に抵抗を続けてきた少弐貞頼、菊池武朝が室町幕府の仲介によって帰服。この背景には室町幕府は大内義弘の勢力の拡大を危惧したことがある。|
|~|1399&br;応永6|九州探題渋川満頼は少弐貞頼、菊池武朝の追討を再開。幕府も大内義弘、大友親世に与力を命じた。但し、室町幕府将軍足利義満は大内義弘の勢力を削ぐ目的で、少弐貞頼、菊池武朝を密かに支援。ところが、結果として菊池武朝は島津師久のもとに落ち延び、少弐貞頼も落ち延びるという反九州探題側の敗戦に終わった。|
|~|1399&br;応永6|【応永の乱】大内義弘の勢力拡大を嫌った室町幕府将軍足利義満が堺において大内義弘を討伐。|
|少弐満貞|1419&br;応永26|【応永の外寇】李氏朝鮮が、少弐家と同盟関係にあった宗家の本拠地である対馬を侵略。報復として、少弐満貞は朝鮮半島への出兵を目論むが結局実行せず。|
|~|1423&br;応永30|父・渋川満頼の跡を継いだ九州探題渋川義俊を攻め博多から肥前国山浦城に逃れる。|
|~|1424&br;応永31|九州探題渋川義俊が少弐家一門・筑紫教門によって筑後に追われ大内持世を頼る。大内持世は叔父で先代の盛見を出撃させ少弐家を撃退。|
|~|1431&br;永享3|【筑前深江の戦い】少弐満貞と大内盛見が干戈を交え、大内盛見が討死。|
|~|1433&br;永享5|【筑前秋月城の戦い】少弐満貞が大内持世に攻められ筑前秋月城にて討死。&br;子の資嗣も肥前与賀庄の戦いで討死。同じく子の嘉頼・教頼は対馬の宗氏を頼って落ち延びる。|
|少弐教頼|1441&br;嘉吉元|【嘉吉の変】京都において、赤松満裕が室町幕府将軍義教を謀殺。少弐嘉頼の死後、家督を承継した少弐教頼は宗貞盛の薦めで赤松満裕の追討を謀ろうとする。しかし、大内教弘の妨害によって果たせなかった。更に、大内教弘は幕命によって大宰府にあった少弐教頼を対馬に追い返す。&br;加えて、博多に九州探題渋川教直、箱崎に陶弘房、大宰府に仁保弘直を置き少弐家の復権を阻止する戦線を張る。|
|~|1446&br;文安3|第9代宗貞盛の婿となった少弐教頼は、第10代宗貞国の力添えによって室町幕府将軍足利義政の許しを得て大宰府に復帰。|
|~|1450&br;宝徳2|少弐教頼が大内政弘に大宰府を追放され肥前の竜造寺家氏を頼る。|
|~|1467&br;応仁元|【応仁の乱】室町幕府管領の細川勝元と山名持豊が対立し応仁の乱が勃発。大内政弘が山名持豊が率いる西軍に付いたことから、少弐教頼は細川勝元に与し宗盛直とともに筑前に侵攻。しかし、大内・大友連合軍に反撃され討死。|
|少弐頼忠(政尚、政資)|1469&br;文明元|応仁の乱に伴う大内政弘の畿内出兵の間隙を突いて筑前の大内軍を破り大宰府入り。|
|~|1469&br;文明元|少弐頼忠は宗貞国に肥前千葉家との戦いへの参加を命じる。この戦いで宗貞国は惨敗。以降、少弐頼忠と宗貞国との間に溝が出来、少弐頼忠は竜造寺家を頼りとする。|
|~|1477&br;文明9|少弐頼忠は宗貞国に大内政弘との戦いへの参加を命じる。しかし、大内政弘は幕命によって宗貞国の出陣を禁じた。これによって、宗貞国は少弐頼忠の命令を拒否。結果として、少弐頼忠は大敗を喫する。|
|~|1482&br;文明14|少弐頼忠は大内勢によって大宰府を追われ肥前の竜造寺家のもとに落ち延びる。|
|~|1486&br;文明18|少弐頼忠(政資)は、千葉胤将に討ち取られた千葉胤朝の娘・尼日光明胤の婿として弟を送り込み、千葉胤資とし晴気城に入れる(西千葉家)。&br;千葉胤将は逐電。胤朝の甥・胤棟(のち興常)は大内政弘に擁立され、小城赤目城、続いて牛頭山城を居城とした(東千葉家)。|
|~|1487&br;長享元|綾部城の九州探題・渋川万寿丸が家臣により殺害。&br;機に乗じた少弐頼忠(政資)は宗播磨守に亀尾城にあった渋川重臣・森戸修理亮を討たせ、馬場経周、筑紫満門、大窪経康に命じて渋川万寿丸の弟・渋川刀禰王丸を攻撃して筑後に追放。|
|~|1489&br;延徳元|少弐政資は、渋川刀禰王丸、千葉興常と肥前養父にて干戈を交え、両軍を筑後犬塚城に駆逐。&br;後、少弐政資は、大友政親と組み、筑後の草野、星野、蒲池、田尻、黒木、河崎、西牟田、酒見、城島、三池の各家を旗下に組み入れ、筑後犬塚城を落とし大宰府に入城。|
|~|1494&br;明応3|少弐政資は、千葉胤資、龍造寺康家、高木家重を率いて松浦郡に侵攻。大軍に抗することあたわず、波多、鶴田、相知、有浦の各家が旗下に入る。&br;更に、肥前高来郡の有馬貴純の与力によって、平戸の松浦弘定(正)を下した。|
|~|1497&br;明応6|少弐政資の大躍進に驚いた室町幕府管領代大内義興は幕命により少弐政資の軍旅を催す。初戦において、少弐政資の子・高経が杉興正を討つも、大軍を前に、少弐政資は筑前岩門城、少弐高経は勝野尾城に篭城するが敗北。父子ともに肥前晴気城に退却し同城にて討死。&br;大内義興は少弐家への備えとして千葉興常を肥前守護代に据える。|
|少弐資元|1495&br;明応7|三根郡代横岳資貞などに肥前神崎郡勢福寺城にて擁立され、大友親治の援軍を得て、綾部城にあった九州探題・渋川刀禰王丸を攻める。|
|~|1507&br;永正4|室町幕府将軍足利義稙の命によって少弐資元・大友義長と大内義興が和睦。&br;足利義稙は、細川政元と日野富子によって義政・義視の弟・足利政知の子・足利義澄が新将軍に擁立されたことにより周防に下向し大内義興を頼っていた。この年、細川政元が暗殺され、大内義興、細川高国の軍勢とともに上洛し将軍に復帰。|
|少弐冬尚|1528&br;享禄元|少弐冬尚が家督を継ぎ、勢福寺城主となる。少弐資元は大宰府に。|
|~|1530&br;享禄3|足利義稙の長男・室町幕府将軍足利義澄の命により、大内義興の子・大内義隆が筑前守護代・杉興運を将として少弐資元追討の軍旅を催す。&br;少弐資元は大宰府から勢福寺城に入城。杉興運は城を大軍をもって包囲。&br;横岳資貞、筑紫尚門、朝日頼貫、千葉勝胤が大内方に寝返る中、龍造寺家兼が神崎郡田手で杉興運を破る。この戦いで、馬場頼周・頼員父子、筑紫惟門、横岳資誠、出雲頼通、本告(Motoori)頼景、宗一鴎、江上興種、山田資光、鍋島清久らの神埼・佐賀衆が少弐家の危機を救う。|
|~|1532&br;天文元|大内義隆が陶道麒を将として軍旅を催す。少弐家と同盟を結ぶ大友家の豊饒永源を久留米から追放。筑紫惟門、千葉喜胤をも降した。
|~|1532&br;天文元|大内義隆が陶道麒を将として軍旅を催す。少弐家と同盟を結ぶ大友家の豊饒永源を久留米から追放。筑紫惟門、千葉喜胤をも降した。|
|~|1534&br;天文3|陶道麒は佐賀水ヶ江城に龍造寺家兼を攻めるも敗北。|
|~|~|大内義隆自身が大軍を擁し出陣して少弐家討伐を行う。大内義隆は調略により龍造寺家兼を降すと、勢福寺城にあった少弐資元・冬尚父子も降伏。大友義鑑も大内義隆と和睦。|
|~|1535&br;天文4|大内義隆が大宰大弐に任ぜられる。また、三根、神崎、佐賀三郡を少弐家から没収。|
|~|~|大内義隆が陶道麒を将として肥前に再度侵攻。少弐資元は多久にて自害。|

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