[[奥州戦国大名家]]>[[伊達>伊達氏]]
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**小梁川氏
***系譜
-1514(永正11)年
--2月:長谷堂の戦い&br;伊達持宗の三男中務少輔盛宗の子・小梁川親朝が最上氏の長谷堂城を陥落させる。
-1553(天文22)
--1月:【天文の乱】最上・相馬・葦名・大崎・葛西を従属させた伊達稙宗は娘婿・相馬顕胤に所領を分与しようとした所、嫡男・晴宗が反発。更に、三男・時宗丸(伊達実元)を越後守護・上杉定実の養子とする件で、本庄房長ら越後揚北衆が挙兵。輝宗は時宗丸を守るために100名の家臣団を随行を命じる。これに対して、伊達家臣団の弱体化を嫌った伊達晴宗が中野宗時・牧野宗興・桑折景長らの支持を受け、伊達晴宗が父・稙宗を桑折西山城に幽閉する。&br;小梁川親宗は晴宗方として活躍し、伊具長岡、屋代中山・北方、北条落合・上長井山上東方、山上、糠部郡、吉田南方の惣成敗を安堵される。
-1542(天文11)年
--小梁川親朝の弟・宗朝が伊達稙宗を救出。稙宗は伊具郡丸森城に隠居し、宗朝も従う。
-1562(永禄5)年
--小梁川親宗が中野宗時とともに上洛し北条氏康に謁見。
-1570(元亀元)年
--【元亀の変】伊達輝宗の参謀である中野宗時が子の伊達守護代・牧野久仲とともに謀反。伊達輝宗が小梁川宗朝の子・宗秀に新田景綱とともに小松城攻撃を命じる。小梁川宗秀は討死。中野宗時・牧野久仲は敗れる。中野宗時は、相馬氏、続いて芦名氏を頼る途上に飢死。&br;小梁川親宗の子で屋代高畠城主・盛宗は中野一族の逃亡を阻止出来なかったことで伊達輝宗より叱責を受ける。
-1573(元亀4)年
--三河野田城が武田信玄軍に下る。
--武田信玄死去。
--織田信長が室町幕府将軍足利義昭を追放。
-1584(天正12)年:【天正最上の乱】:父・最上義守と小競り合いの末に、重臣・氏家定直の説得によって当主となった嫡男・最上義光は権力の集中を企図。これに反発した家臣団が隠居した最上義守を再び擁立。最上義守は娘婿・伊達輝宗に援軍を要請。
--伊達家臣・小梁川盛宗が上山城を攻め、上山満兼は伊達方に降伏。
--伊達軍が寒河江城主・寒河江兼広を攻める。最上一門の天童頼貞・蔵増頼真、寒河江氏一族の白岩氏・溝延氏・左沢氏、谷地城主白鳥長久が伊達方に下ったため、寒河江兼広も伊達方に下る。
--最上義光が攻勢に出る。
--白鳥長久が和議を提案。最上義光有利の和議が成立。以降、最上氏の分族の最上八楯、白鳥長久・寒河江氏・大宝寺氏らは最上義光によって討伐されていく。最上義守は龍門寺に隠棲。
-1585(天正13)年
--伊達輝宗が死去する。小梁川盛宗は隠居し泥播斎と号する。伊達政宗の側近として陰に助言。

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