[[四姓]]
[[四姓]]>[[南関東戦国大名家]]
**三浦氏
三浦氏が歴史に名を現すのは1986年の後三年の役で源義家の配下として戦った三浦平太郎為継が最初とされている。
この戦いで三浦平太郎為継は同じく坂東八平氏の鎌倉権五郎景政の目に突き刺さった矢を抜いたエピソードで知られている。
三浦氏は平氏を称していたが、三浦半島の古代豪族大田部氏、御浦氏の血を引くのではないかという説もある。これらの古代豪族に下向してきた平氏の血が混ざって平氏を僭称したという可能性も強ち否定は出来ない。
しかし、三浦氏が歴史上に登場して以来、一貫して平氏を称していたという事もまた事実であり。この事実を軽く見てはならない。
三浦為継の孫の義明は三浦大介として知られ、三浦半島に勢力を広く扶植した。
義明の娘は下向してきた源義朝の側室となっていた他、義朝の子の義平が叔父の義賢を大蔵館に破った際には義平を支援したという。
また、同じく義朝の子の頼朝が挙兵した際には一族を挙げて挙兵に参加している。
***年譜
-1051-56(永承6-天喜4):三浦為通が陸奥守源頼義に従って前九年の役に参陣。
-1144(天養元):三浦庄司義継、義明父子が源義朝に従って相模国大庭御厨に侵入。
-1150(久安6):三浦義明が三浦大介を名乗り衣笠城を拠点として三浦半島を勢力圏に収める。
-1156(保元元):鳥羽法皇死去に伴い、崇徳上皇と後白河天皇が軍事衝突(【保元の乱】)。上皇軍は敗れ、義朝が父・為義を斬首。
-1159(平治元):平清盛と藤原信西の隆盛に対抗し藤原信頼と源義朝が挙兵(【平治の乱】)。藤原信西を討つものの、平清盛によって敗北。義朝は尾張にて討たれる。三浦義明の嫡子・三浦義澄は源義朝に従う。
-1160(永暦元):源義朝の子・頼朝が伊豆蛭が小島に配流。
-1167(仁安2):平清盛が太政大臣に就任。
-1177(治承元):【鹿ケ谷の陰謀】後白河法皇の側近・藤原成親、俊寛らが平氏打倒の陰謀を巡らすも捕縛され配流。
-1180(治承4)
--平清盛の娘・徳子の子である言仁皇太子が安徳天皇として即位。
--以仁王が平氏打倒の令旨を発する。京都にいた三浦義澄らが伊豆に入り源頼朝に情勢を報告。
--以仁王とともに挙兵した源頼政が討死。
--源頼朝が妻・政子の父である北条時政らの支援によって伊豆目代山木兼隆を討ち取る。
--三浦大介義明が源頼朝に応じて挙兵する。
--源頼朝が石橋山合戦で敗れ、海路、安房に逃れる。
--三浦一族が衣笠城で畠山重忠率いる平家軍と戦い、三浦大介義明が討死。三浦義澄、和田義盛ら三浦一族は、海路、安房に逃れる。安房への途上、源頼朝一行と三浦一族が合流。
--源頼朝が鎌倉に入る。
--三浦義澄が源頼朝より三浦介に任ぜられる。
--和田義盛も侍所別当に任ぜられる。
-1181(養和元):平清盛が没する。
-1183(寿永2)
--平氏一族が安徳天皇を奉じて西国に逃れる。
--木曽義仲が入京。平氏を追撃するも水島にて敗れる。
--木曽義仲が京都に戻り後白河法皇を幽閉し実権を掌握。
-1184(元暦元)
--木曽義仲が征夷大将軍となる。
--源範頼、義経軍が木曽義仲軍を瀬田で敗る。木曽義仲は討死。
-1185(文治元):【壇ノ浦の戦い】平氏滅亡す。
--源義経が後白河法皇によって検非違使に任ぜられる。しかし、源頼朝の逆鱗に触れ、奥州平泉へと逃れる。
--北条時政が上洛。諸国に守護、地頭を設置することの裁許を得る。
-1189(文治5):源頼朝による奥州征伐。
--三浦一族である佐原義連が戦功によって奥州会津に所領を得る。
-1192(建久3):
--後白河法王が没する。
--源頼朝が征夷大将軍に任ぜられる。
-1199(正治元):
--源頼朝が没する。
--鎌倉幕府が源頼家の親裁を停止し北条時政ら13人の御家人の合議制とする。
--三浦義澄、和田義盛、結城朝光らが梶原景時を追放。
-1200(正治2):三浦義澄および義澄の叔父である岡崎義実が没する。
-1201(建仁元):
--千葉常胤が没する。
--城資盛が同氏旧領・越後奥山庄鳥坂城にて反幕の挙兵。城資盛は木曽義仲に敗れた後に梶原景時に預けられていた。幕府は佐々木盛綱を派遣し鎮圧。
--越後奥山庄は和田義盛の弟・和田義茂の所領であったが、これは和田一族に伝領され、越後和田氏の中から中条氏、黒川氏、関沢氏が輩出される。
-1202(建仁2):
--源頼家が征夷大将軍に任ぜられる。
--北条義時の嫡男・泰時が三浦義村の娘を娶る。
-1203(建仁3):
--将軍・源頼家が叔父・阿野全成を謀反の嫌疑にて捕縛し斬首。
--将軍・源頼家が危篤状態に陥ったために、幕府は頼家の子・一幡と弟・千幡(実朝)の二人を後継者とする。
--北条時政、政子が源頼家の舅・比企能員を討つ。
--将軍・源頼家が修善寺に幽閉され、源実朝が征夷大将軍となる。
-1204(元久元):源頼家が暗殺される。
-1205(元久2):
--畠山重忠が北条時政によって謀反の嫌疑を掛けられ討ち取られる。
--北条時政と妻・牧の方が娘婿の平賀朝雅(源氏門葉)を将軍に擁立しようと目論むも失敗。
--北条政子が三浦義村に命じて実朝を北条義時邸に移す。北条時政が伊豆に追放される。
--北条義時が鎌倉幕府執権となる。
--京都守護・平賀朝雅が執権・北条義時の命を受けた山内首藤通基によって討たれる。
-1207(承元元):佐原義連が没する。
-1209(承元3):侍所別当・和田義盛が上総国司の内意を将軍・源実朝よる受ける。
-1211(建暦元):上総国司の内意が実現しないことに業を煮やし不満を抱く和田義盛が大江広元によって詰問を受ける。
-1213(建保元):
--法師安念が執権・北条義時暗殺の嫌疑により捕縛。和田義盛の子・義直と義重、和田義盛の甥・和田胤長が一味として捕縛される。義直と義重は釈放されるも、胤長は釈放されず。
--和田胤長が奥州岩瀬郷に配流される。
--【和田合戦】和田義盛が執権・北条義時邸を襲撃。三浦義村・胤義は親族の和田義盛挙兵を北条方に密告。和田一族は幕府軍の反撃によって族滅。配流されていた和田胤長も斬首される。
-1214(建保2):京都にて和田義盛残党が前将軍・源頼家の遺児・栄実を擁立。幕府軍によって鎮圧され栄実は自刃。
-1217(建保5):前将軍・頼家の遺児・公暁が鶴岡八幡宮の別当となる。なお、この公暁の寵愛を受けたのが三浦義村の子・駒若丸(後の光村)。
-1218(建保6):北条政子が上洛し、後鳥羽天皇の乳母である卿二位・藤原兼子に後継将軍として皇子の斡旋を依頼。藤原兼子が養育していた冷泉宮頼仁親王(後鳥羽天皇皇子)が次期将軍に擬せられる。
-1219(承久元):
--将軍・源実朝が公暁に討たれる。公暁は三浦義村に庇護を求めるが、義村は執権・北条義時に通報し公暁は討たれる。
--源頼朝の姪を母に持つ九条道家の子・三寅が次期将軍として鎌倉に入る。
-1221(承久3):【承久の乱】
--後鳥羽上皇が倒幕の挙兵。
--三浦義村の弟・胤義が後鳥羽上皇に対して義村への宣旨を要求。
--三浦義村が胤義の書状を執権・北条義時に差出し幕府への忠誠を誓う。
--幕府軍が20万の軍勢で上皇軍を制圧。三浦胤義父子は自刃。
--後鳥羽上皇が讃岐、その子・順徳上皇が佐渡に配流。順徳上皇の兄で承久の乱に直接関与しなかった土御門上皇は自主的に土佐に遷座。
-1224(元仁元):
--第2代執権・北条義時が没する。義時の嫡男・泰時が第3代執権となる。義時の弟で、三浦義連を烏帽子親とする大仏時房が初代連署に就任。
--【[[伊賀氏の乱:http://www.digistats.net/usakoji/history/214.htm]]】
-1225(嘉禄元):大江広元、北条政子が没する。執権・北条泰時は北条政村、三浦義村、泰村ら[[伊賀氏の乱:http://www.digistats.net/usakoji/history/214.htm]]の関係者を含めて11人の評定衆を置く。
-1226(嘉禄2):鎌倉入りしていた九条頼経(三寅)が第3代鎌倉幕府将軍となる。
-1230(寛喜元):執権・泰時の妻・矢部禅尼(三浦義村娘)が三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁。二人の間の子・若狭守護時氏が病死。
-1237(嘉禎3):佐原盛連が没する。
-1239(延応元):三浦義村が没する。
-1242(仁治3):第3代執権・泰時が没する。矢部禅尼との間の子・時氏が早世していたため、嫡孫の経時が第4代執権に就任。
-1244(寛元2):第4代将軍・九条頼経が退位し、その子・九条頼嗣が第5代将軍となる。
-1246(寛元4)
--第4代執権・北条経時が執権職を辞任。弟の時頼が第5代執権となる。
--北条経時が没する。
--【宮騒動】北条一門の名越光時が後藤基綱・千葉秀胤・三善康持ら反執権派と連携し前将軍九条頼経を擁立し謀反を計画。鎌倉中に反執権派、執権派双方の武士が参集。
--第5代執権・北条時頼が謀反計画を察知し鎌倉を封鎖。名越光時・時幸が出家し執権側に恭順の意を示す。名越時幸は自害。
--三浦泰村の弟・家村が、北条政村・北条実時・安達義景が集う時頼私邸を訪問し三浦氏の恭順を誓う。結果、趨勢が決し、名越光時は伊豆へ配流。前将軍九条頼経は京都へ送還される。
--前将軍九条頼経の送還の際、三浦泰村の弟・光村は「必ず今一度鎌倉へお迎えします」旨を告げる。
--執権・北条時頼が六波羅探題・北条重時の鎌倉召還を執権外戚の三浦泰村に打診。三浦氏排斥と同じく外戚の安達氏重視を嫌った三浦泰村は拒否。
--幕府は前将軍九条頼経の父で関東申次職・九条道家を罷免。西園寺実氏を関東申次職とする。
-1247(宝治元):【宝治の乱】
--高野山にて出家していた安達景盛が鎌倉に帰還。子の安達義景や孫の泰盛に三浦氏討伐を説く。
--安達氏による煽動に端を発し鎌倉中騒動。
--執権・北条時頼が腹心の平盛綱(内管領長崎氏の祖)を三浦泰村邸に派遣し和議を結ぶ。
--和議の成立を阻止すべく安達景盛が三浦泰村邸を襲撃。
--三浦方には毛利季光、関政泰、春日部実景、宇都宮時綱らの鎌倉将軍派が結集し反撃。
--戦端が開かれたため、執権・北条時頼は和議を破棄し、北条実時に将軍御所の守護を命じ、弟の北条時定を大将軍として三浦泰村討伐の軍を派遣。三浦一族のうち、佐原盛時ら佐原一族は執権派として三浦宗家と戦う。
--三浦一族が源頼朝を祀る法華堂に篭城し与党500余名自害。一族滅亡。三浦家村のみ所在不明。
--上総国にあった三浦泰村の妹婿・千葉秀胤が追討軍に敗れ自害。
--佐原盛連の五男・盛時が三浦介に任ぜられ三浦宗家を承継。佐原盛連の長子の佐原経連は会津・猪苗代を拝領し猪苗代氏の祖となり、次男広盛は比田氏の祖となり、三男盛義は藤倉氏の祖となり、六男時連は新宮に住んで新宮氏の祖となる。佐原氏の惣領は四男の光盛が就き、相模の葦名を本拠として葦名氏を名乗った。



***系譜
CENTER:
http://www.digistats.net/image/2009/11/miura.gif
***参考
-[[坂東八平氏]]

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