[[北関東・越後戦国大名家]]
*佐野家
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~藤原氏秀郷流。足利七郎有綱の子基綱が、下野国安蘇郡佐野庄を本拠地として佐野を称したのを始まりとする一族。常陸の佐竹氏が討伐を受けた後に、頼朝の叔父の志田義広もまた源氏の棟梁たらんと挙兵。佐野氏の本宗家の藤原姓足利氏は源 頼朝に叛旗を翻した志田義広に与して小山朝政らの討伐を受けて没落。しかし、佐野基綱はこの時、小山氏の陣営にあり、御家人に列した。
~藤原氏[[秀郷流]]。足利七郎有綱の子基綱が、下野国安蘇郡佐野庄を本拠地として佐野を称したのを始まりとする一族。常陸の佐竹氏が討伐を受けた後に、頼朝の叔父の志田義広もまた源氏の棟梁たらんと挙兵。佐野氏の本宗家の藤原姓足利氏は源 頼朝に叛旗を翻した志田義広に与して小山朝政らの討伐を受けて没落。しかし、佐野基綱はこの時、小山氏の陣営にあり、御家人に列した。

ところが、1247(宝治元)年の宝治合戦では三浦氏に与して佐野庄のみを残して領地は没収された。以降、佐野氏は鎌倉時代を通じて歴史の表舞台から姿を消した。

南北朝時代には源氏の足利氏の重臣斯波氏の配下として戦った。その後の観応の擾乱に際しても一貫して足利高氏方として戦い抜いている。1451(享徳3)年に鎌倉公方足利成氏が山内上杉憲忠を謀殺したことで始まった享徳の乱では鎌倉を捨てて古河に走った成氏に従い、佐野氏は舞木氏と岩松氏とともに古河公方方の三大将として名を馳せた。ただ、この三大将も忠誠心に篤く磐石という訳ではなく、1459(享徳3)年には岩国持国が公方方から離反している。更に、古河公方足利成氏が伊豆の堀越公方の討伐に失敗すると両上杉軍が佐野氏の赤見城と樺崎城に猛攻を加えた。これに堪り兼ねた佐野氏は上杉方の軍門に下った。

1558(永禄元)年に越後の上杉謙信が会津黒川城主蘆名盛氏とともに宇都宮氏を攻めると佐野豊綱も上杉方の戦陣に加わって戦死。この時は上杉謙信方として戦ったのであるが、豊綱の子の昌綱は一転して、古河公方足利義氏、武田信玄、北条氏康の連合軍に従った。そのために、上杉謙信による攻撃を受けることになる。居城の唐沢山城は、丁度、関東侵攻ルート上にあった重要地点であったために佐野氏の動向が極めて重要になったのである。佐野氏は今度も猛攻に晒され、結局は上杉謙信の軍門に下っている。このことは逆に言うと北条氏康陣営にとっては最悪の事態であり、今度は後北条軍の猛攻に晒されることになった。佐野昌綱は一生を上杉と北条の勢力の間で翻弄され続けた。

昌綱を継いだ宗綱の代には更に北条氏の猛攻が周囲を包み込んだ。上杉陣営も撤退した中で佐野宗綱は常陸の佐竹氏と手を結んで北条氏の猛攻を耐えしのいだ。そして、関東の趨勢を決する沼尻の戦いを迎えることになる。この戦いで、しかし、佐野宗綱は討ち死にしてしまう。当主が討ち死にし、北条氏に囲まれた佐野氏は北条氏忠を養子として佐野氏に入れ統括することで家中が合意。この中、佐野房綱(了伯)は異議を唱えて他の家臣とともに佐野家を去った。

その後の運命は数奇としか言いようが無い。その場の危機を敵方の北条氏から養子を迎えて軍門に下るということで解決を図った佐野氏は、天下人豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡すると、命運を共にしてしまうのである。この時、かつて家を去った佐野房綱(了伯)は秀吉の先方として佐野を攻めた。この戦功によって佐野房綱(了伯)は本領を安堵され、秀吉の股肱の臣富田知信の子を養子として佐野氏を存続させた。ところが、この佐野信吉は兄が起こした事件に連座して改易され、子孫は旗本として存続を許されることになった。

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