[[葛西橋からの旅]]
*金崎城址
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~1336(延元元)年5月、九州から勢力を盛り返した足利尊氏は後醍醐天皇の懐刀楠木正成を湊川で敗死させ、京都に入り後醍醐天皇を比叡山へと追いやった。後醍醐天皇は新田義貞を擁して戦いを挑むが足利軍の優勢を崩すことが出来ず10月に和議を結ぶ。足利尊氏は形式上、後醍醐天皇ではなく新田義貞に対して戦いを挑んだ形となっていた。そのため、和議に際して新田義貞が足利尊氏の軍門に下るということは有りえなかった。

ここに、後醍醐天皇は皇位と三種の神器を恒良(Tsuneyoshi/Tsunenaga)親王に譲り、異母兄の尊良親王とともに新田義貞・義顕父子に付けて比叡山から北陸に向かわせた。目指すは敦賀の金ヶ崎城。今の金崎宮の地である。

新田義貞は琵琶湖西岸の越前海岸の北上を目論むも足利方の越前守護斯波高経の軍の布陣のために断念。琵琶湖を慣れない船で渡り湖北の海津浜に上陸し西近江路を経て敦賀を目指した。しかし、海津浜も斯波軍によって塞がれ塩津浜に上陸。塩津街道が斯波軍に塞がれたため、北国街道から難所である木芽峠を越えた。冬の峠越えは想像を絶し、特に、新田軍に従っていた河野、土居、得能家の武士団は寒さに力を削がれ足利方の佐々木一族による追撃を受け殲滅されてしまう。土居通増、得能通言は討死し、ただ、千葉貞胤だけが斯波高経の言を入れて降伏。新田義貞は多くの兵力を失ってようやく気比氏治によって敦賀に迎え入れられた。

敦賀に到着するや、直ちに、息子の義顕に弟の脇屋義治を付けて越後の瓜生保が守る杣山城に派遣し瓜生一族の加勢を要請。瓜生一族は嵯峨源氏の名門。承久の変で鎌倉幕府に叛旗を翻し敗れて越後国三島郡瓜生に拠った。中先代の乱でも名越時兼を討ち取っている。ところが、瓜生保は後醍醐天皇が足利尊氏と和議を結んだことを知り新田への加勢を断る。わづかに、瓜生保の弟の義鑑坊のみが加勢を了解。

目論みの外れた義顕・義治は金ヶ崎城に戻ろうとするが、既に斯波高経の2万の軍勢に囲まれ、加えて今庄浄慶が国人衆を率いて劣勢の新田軍に襲い掛かった。たった16騎となった義顕・義治一行は奇襲によって、義貞の待つ金ヶ崎城に入った。

両軍睨み合う膠着状態は亘理新左衛門の齎した後醍醐天皇の綸旨だった。この綸旨を義鑑坊、兵庫助、弾正左衛門が一族の棟梁瓜生保に伝えると瓜生保は足利の陣営を離れた。ところろが、杣山城主瓜生保が斯波高経を討つために参戦を試みるも、今川頼貞によって途上で撃破され瓜生保自身の戦死という結果に終わり惨敗。

この中、新田義貞と脇屋義助は戦線を両親王を残して金ヶ崎城を脱出し起死回生を図る。ところが、この作戦は裏目に出る。
足利軍は城に総攻撃によって金崎城は落城。城に残っていた新田義貞嫡男の新田義顕と尊良親王は自害。逃れた尊良親王も足利軍によって捕虜となり殺害される。
その後、越前守護代甲斐常治と若狭守護斯波義敏との戦闘の場ともなった。

金ヶ崎城址には、現在、金崎宮が鎮座している。
その境内に朝倉社が境内摂社としてあるが、これは織田信長が朝倉氏を攻めた時に、敦賀郡司朝倉景恒が敦賀城と呼ばれていた金ヶ崎城を守ったことに由来する。
こうした数々の戦闘の歴史を持つ古戦場は、明治26年に尊良親王を金崎山へ祀ったのが金崎宮の始まり。
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