[[清和源氏惣括]]
*義家流(新田流)
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**参考
-[[清和源氏惣括]]
-[[義家流(足利流)]]
**年表
|50|50|50|300|c
|西暦|元号|月日|事蹟|
|939|天慶2||田原藤太秀郷が平将門を討伐。後、下野に土着し、子孫は藤姓足利党、小山党として「一国の両虎」と呼ばれる。|
|1070|延久2||源八幡太郎義家が下野守として赴任。|
|1082|永保2||藤姓足利家綱の姉妹と源義家との間に源姓足利初代義国が生まれる。&br;「横瀬由良系図」、「新田実城応永記」によると1088(寛治2)年。|
||||下野国司源義家が足利郡司藤姓足利党の本領・足利郡と藤姓足利党庶流筆頭の佐野家の佐野荘の間に別荘を持つ(足利市借宿町字源氏屋敷)。|
|1099|康和元||源新羅三郎義光の孫・佐竹昌義が本領の常陸国佐竹郷にて叛乱。|
|1100|康和2||堀河天皇が源義国を佐竹昌義の追討使に命じる。佐竹昌義は討ち取られる。|
|1103|康和5|11|源新羅三郎義光が堀河天皇によって京都に召還を受ける。義光はすぐに常陸に帰国。|
|~|~||【常陸合戦】&br;源新羅三郎義光が常陸大掾家の平重幹・教幹父子とともに挙兵。源義国に攻めかかる。|
|1106|嘉承元|6|白河法皇が源新羅義光を父・義家に、源義光を常陸国司によって京都に連行するように命じる。|
|~|~|7|源義家が亡くなる。&br;義国の兄・義親は西国で康和の乱によって追討を受ける身。義国もまた召還を受ける身。従って、清和源氏の惣領の座は義家の四男・義忠に。|
|1109|天仁2||清和源氏の惣領・源義忠が源新羅三郎義光によって暗殺される。&br;清和源氏の惣領の座は義親の四男・為義に。&br;惣領の座から遠ざかった義国は父から相続した梁田郡の開墾を行う。|
|1135|保延元||源義国が上野介藤原敦基の娘との間に義重をもうける。|
|1142|康治元|10|源義国が梁田郡・足利郡の開拓地を鳥羽法皇の安楽寿院(京都市伏見区)に寄進し足利荘が成立する。この足利荘は鳥羽法皇の寵愛を受けた美福門院得子を経て後白河法皇の妹・八条女院障子が領した(八条院領荘園)。|
|1143|康治2||源義国が梁田郡の開拓地を伊勢内外宮に寄進し梁田御厨が成立。|
|1145-51|久安年間||足利郡と梁田郡を侵食された藤姓足利家綱が梁田御厨の口入神主・荒木田元定を利光に代え梁田御厨の実権を奪おうと画策。&br;これに対し、源義国が上洛し鳥羽法皇への直訴を目指す。&br;共に上洛した義国の次男・義康が鳥羽上皇に北面武士として仕え陸奥守に任官。また、義康は熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)と結婚し、相聟となった源義朝との関係を深める。|
|1150|久安6||右大将藤原実能と源義国の行列が衝突し乱闘。無位無官の源義国は近衛天皇の勅勘を蒙り帰国し隠退蟄居。&br;源姓足利家の惣領は次男・義康が承継。&br;長男・義重は藤姓足利家の勢力圏内である新田郡を開拓。この開拓により、藤姓足利家と結んだ武蔵国の秩父家、源義賢と対立を深める。|
|1154|久寿元||源義国が足利前式部大夫から荒加賀入道と名乗りを変え出家。|
|1155|久寿2|6/26|源義国が新田郡内にて亡くなる。新田郡岩松郷の青蓮寺に葬られる。|
|||[[続く>新田家(1)]]|
||||[[続く>新田家(1)]]|

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