[[九州地方南部戦国大名家]]
*島津家
**事蹟
|100|50|400|c
|惟宗(島津)忠久|1185&br;寿永4|源 頼朝により日向、大隅、薩摩に跨る島津荘下司職を任命される。&br;島津荘は日向国諸県郡島津院を開拓した大宰府大監平季基と弟の良宗が万寿年間(1024-28)に宇治関白藤原頼通に寄進したことに起源を持つ荘園。&br;島津忠久は島津荘を所有する近衛家の家司であり、下司職任命も近衛家の推挙によるもの。&br;忠久は薩摩山門院の木牟礼城、次いで祝吉御所を居城としたが、ほとんどを鎌倉で過ごした。|
|~|1203&br;建仁3|【比企能員の乱】娘である若狭局を2代将軍源 頼家の妻とし、その子一幡を擁立しようとする比企能員が3代将軍を巡って北条家と対立。比企一族が謀反ありとして北条家率いる幕府軍に攻め滅ぼされた。&br;島津忠久は、この事件に連座し日向、大隅、薩摩の下司職を停止される。|
|~|1205&br;元久2|薩摩国守護職と島津荘薩摩方地頭職に任ぜられる。&br;島津家は、以降、薩摩国のみに封じ込められる。|
|~|-|薩摩国派遣被官:鎌田政佐、酒匂景貞、猿渡実信、本田貞親。|
|島津忠時|-|父と同じく薩摩に下向せず鎌倉にて執政。|
|島津久経|1275&br;建治元|父・忠時と同じく薩摩に下向せず鎌倉にて執政していたが、前年の文永の役(元寇)の後、幕府が御家人に異国警固番役を命ぜられる。これに応じ、島津久経は入来院有重、二階堂泰行、比志島時範を率いて北九州の沿岸警備を行う。|
|~|1281&br;弘安4|再び元軍が侵略(弘安の役)。島津家は兵船を出動させ干戈を交える。久経は、翌年、筑前筥崎にて死す。|
|島津貞久|1333&br;元弘3|少弐貞経、大友貞宗とともに、後醍醐天皇に呼応した菊池武時を討つとともに、赤橋久時の子・鎮西探題北条英時を博多の探題館に討つ。|
|~|1337&br;建武4|大隅国加世田高雲城にて南朝方の肝付兼重と干戈を交える。|
|~|~|薩摩郡碇山城を奪取し、本拠地を木牟礼城から移転。&br;鹿児島郡催馬楽城、東福寺城をも攻略。|
|~|1342&br;康永元|谷山隆信、伊集院忠国、市来時家ら薩摩国衆は征西将軍懐良親王を御所が原城に奉戴し、親王が1347年に肥後に遷座するまで足利方の島津軍と連戦。|
|~|1352&br;文和元|師久(薩摩守護職)に薩摩碇山城、氏久(大隅守護職)に大隅東福寺城を相続させ、足利直冬に属した畠山直顕に備える。|
|島津氏久|1357&br;延文2|畠山直顕を退け、大姶良城、志布志城を拠点として大隅国を纏める。|
|島津元久|1373&br;明徳3|薩摩守護島津師久の子で守護職を相続した伊久と、その子・碇山城主守久が親子対立。薩摩守護島津伊久は守護職を島津氏久の子で大隅守護職を相続していた元久に譲渡。&br;しかし、元久が鹿児島に清水城を築城した関係で、伊久の総州家と元久の奥州家は対立関係となり、薩摩守護職は総州家に戻る。|
|~|1404&br;応永11|室町幕府将軍足利義満より大隅守護職、日向守護職に任命。|
|~|1409&br;応永16|室町幕府将軍足利義満より薩摩守護職に任命。|
|島津久豊|1411&br; 応永18|兄・元久が死去。外戚で庶家の伊集院頼久が伊集院熙久(初犬千代丸)を擁立すると反発し後継者を名乗る。|
|~|1417&br; 応永24|伊集院頼久の降伏によって日向、大隅両国を支配下に収める。|
|~|1418&br; 応永25|薩摩の入来院重長、市来家頼と結んで総州家一門・永利城主島津忠朝を攻略。|
|~|1421&br; 応永28|隅之城にて島津忠朝を討ち取る。|
|~|1422&br; 応永29|総州家の本拠・木牟礼城を攻め、島津守久を追放。薩摩を領国化。||島津忠国|1430&br; 永享2|日向真幸院徳満城主北原家のもとに匿われていた総州家島津島津守久の孫・久林を攻めて討ち取る。ここに、総州家は滅亡。|
|~|1422&br; 応永29|総州家の本拠・木牟礼城を攻め、島津守久を追放。薩摩を領国化。|
|島津忠国|1430&br; 永享2|日向真幸院徳満城主北原家のもとに匿われていた総州家島津島津守久の孫・久林を攻めて討ち取る。ここに、総州家は滅亡。|
|~|1432&br; 永享4|国人衆の抵抗が激しくなり、弟・用久(好久;薩州家)を守護代とし、自身は大隅国深川院に入って国人衆を抑えた。|
|~|1441&br; 嘉吉元|国人衆の衆望が薩州家島津用久に集まり、島津忠国との関係が悪化。用久は恭順の意を示し領地である出水に逼塞するも、忠国が攻める姿勢を示したことで叛旗。領内が混乱。|
|~|1448&br; 文安5|三国守護島津忠国と弟・薩州家島津用久が和解。|
|島津忠昌|1476&br;文明8|薩州家島津国久、豊州家島津季久が叛旗。&br;忠昌は、一時、伊集院一宇治城に逃れるも鎮圧する。|
|~|1508&br;永正5|【三州大乱】領内混乱を見て、肥後相良家、日向伊東家・北原家が伊作久逸、祁答院家と結んで清水城を攻略。島津忠昌は自刃。|
|島津忠治|1515&br;永正12|島津本家居城近くの吉田松尾城主・吉田位清を攻略中に没す。|
|島津勝久|1526&br;大永6|伊作家島津忠良は母・常盤が相州家当主・島津運久に再嫁したため伊作家・相州家を相続。自身の子・貴久を宗家の嗣子としようとする。&br;勝久の正室の弟・薩州家島津実久も宗家の地位を狙って圧力をかけてきたことから、勝久は貴久に守護職と清水城を譲渡し、自身は伊作に入った。しかし、翌年、薩州家島津実久は貴久を追放し勝久を清水城に入れている。|
|~|1533&br;天文2|伊作・相州家家島津忠良が薩州家島津実久方の日置南郷城主桑波田孫六を攻略。&br;日置城主・山田式部少輔有親を降和させる。|
|~|1536&br;天文5|伊作・相州家家島津忠良が薩州家島津実久方の伊集院一宇治城主・町田中務少輔久用を攻略。|
|~|1539&br;天文8|伊作・相州家家島津忠良が薩州家島津実久方の加世田別府城、谷山苦辛山城、谷山本城、神前城、川辺平山城、市来平城、本城を落城させ、薩州家島津実久の弟・忠辰を討ち取る。&br;ここに至って、薩州家島津実久は伊作・相州家家島津忠良に降伏。|
|島津貴久|1550&br;天文19|伊作・相州家家島津忠良と、子・貴久が伊集院一宇治城から清水城近くの鹿児島内城に入城。実質的に島津勝久から家督を相続。|
|~|1557&br;弘治3|大隅蒲生龍ヵ城主・蒲生家を攻略。|
|~|1569&br;永禄12|北薩馬越城主・菱刈家を攻略。|
|~|1570&br;元亀元|中薩入来院清敷城主・入来院家を攻略。|
|島津義久|1572&br;元亀3|【日向木崎原合戦】日向伊東家を撃破。伊東家は1577年に米良山に駆逐された。|
|~|1574&br;天正2|肝付家を従属させ大隅国の支配権を握る。|
|~|1578&br;天正6|【日向耳川合戦】義久の弟・義弘が大友軍を殲滅。|
|~|1581&br;天正9|肥前水俣城に相良家を破る。|
|~|1584&br;天正12|【肥前島原合戦】龍造寺家を破る。|
|~|1587&br;天正15|豊臣秀吉による九州征伐によって、秀吉に降伏。|
|~|1595&br;文禄4|豊臣秀吉による知行割当によって、義久は大隅富隈城、弟・義弘は大隅帖佐城館、義弘の子・家久が鹿児島内城に入城。|
|~|1597-98&br;慶長2-3|慶長の役で島津義弘、家久が渡海。|
|~|1599&br;慶長4|帰国した島津家久が朝鮮半島での兵站枯渇の責任として伊集院幸侃(忠棟)を誅殺し蟄居。五大老の一人であった徳川家康の擁護によって島津家久は赦免されるも伊集院主従は遺児・忠真を立てて所領の日向庄内で挙兵。徳川方の山口直友の仲介によって、伊集院忠真に頴娃1万石を与えることで決着。&br;但し、伊集院忠真は後に殺害されることとなる。|
|~|1600&br;慶長5|【関が原の戦い】島津義弘は西軍の主力部隊として参戦。&br;敗戦すると徳川家康の本陣前を突破し帰国。日向天ケ城を築城し徳川軍の進撃に備える。|
|~|1601&br;慶長6|義久、義弘、家久連名で『15ヵ条の軍法』を発布し徳川軍の進撃に備える。|
|島津家久|1602&br;慶長7|徳川家康が島津義久に薩摩、大隅、日向の旧領を安堵し、家督を家久に相続させることを命じる。また、家久の実父であり、関が原に参戦した義弘をも赦免。|



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