ルーツ近衛

津軽家

事蹟

津軽則信1445
文安2
南部光政によって津軽堀越城が落城し自刃。子の元信は家臣・大曲和泉守によって三戸に逃れる。
津軽元信-旧領回復を目論むも南部家によって鬼柳で殺害。
1497
明応6
前関白近衛尚通が京都の戦乱を避けて津軽に下向。津軽光信の娘との間に政信が生まれる。
津軽光信-南部家によって津軽鼻和郡種里に封ぜられる。
1502
文亀2
大浦城を築城し息子の盛信を配する。
1533
天文2
南部安信が大光寺と大浦城を攻めるが講和。南部安信は津軽家への抑えとして、南部(石川)高信を石川城主とし、大光寺に北信愛、浅瀬石に千徳政吉、和徳に小山内満春を配した。
津軽政信1541
天文10
津軽光信の跡を継いだ政信は、和徳城主小山内満春と三味線原で戦闘に及び討死。
津軽為則1561
永禄4年
政信の嫡子。九戸政実と南部信直が三戸南部氏の後継で争う。津軽為則は、石川高信の要請によって信直方に加担。弟・掘越城主守信、横田城主堤孫六を率いて南部桜庭の合戦に臨むも弟・守信が討死。南部家の家督は信直が承継。
津軽為信1580
天正8
津軽守信の嫡男で当主・為則の娘阿保良姫を妻とし家督を承継した為信は、1580年、南部家津軽郡代石川高信の死とともに独立を明確に目指す。但し、それ以前に浅瀬石隠岐の死とともに大光寺左衛門尉を攻撃し出羽に追放。さらに、石川高信の石川城を為信は何度も攻め、南部信直も何度も津軽を攻めていた。しかし、九戸政実の牽制があったために南部家は津軽家を攻略することが出来ず。
1590
天正18
津軽郡代石川城主南部政信を毒殺し石川城を奪取。浪岡御所北畠顕村も攻め滅ぼした。

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