埼玉の城館武蔵七党

太田氏

太田氏は武蔵七党の横山党の流れを汲む猪俣党の末裔とも、清和源氏頼光流の源三位頼政の末裔とも言われている。

源三位頼政は清和源氏の一門でありながら平清盛政権の中でも重きをなした人物。しかし、平家の専横を快しとせず、1180(治承4)年5月に以仁王の挙兵に加わり、木曽義仲や源頼朝の挙兵の引き金を引いた。残念ながら、頼政とその子・仲綱は宇治にて平家軍に敗れて討死。その源仲綱の弟にして養子の広綱は源頼朝に仕え、足利義兼、平賀義信とともに鎌倉幕府の中にあって将軍家の門葉として重んじられた。とはいえ、条件さえ整えばいつでも清和源氏の一門として将軍の地位を狙うことの出来る立場にあったことは源広綱に様々な圧力があったのだろう。1190(建久元)年に源広綱は突然出奔し京都の醍醐寺に入ってしまう。

直前に同じく清和源氏である甲斐の武田信義の子・一条忠頼が鎌倉にて謀殺されている(1184[元暦元]年6月16日)。甲斐源氏は、一時期、源頼朝、木曽義仲と並んで武家の棟梁と目されていた経緯がある。木曽義仲は討たれ、一条忠頼も討たれた。次は自分かもしれないという恐怖感があったのかもしれない。そういう状況にあって、政治的な野心のないことを示すには出家ほど都合の良い方法は無かったのだろう。出家した源広綱の子・隆綱は土御門天皇(在位:1198-1210)に仕え丹波国五箇庄を領している。隆綱の子・国網は同国に下向し、資国は同国太田郷に居を構え、太田氏を称した。ちなみに、太田郷は足利氏領。この頃から、同じ丹波に領地を持っていた上杉重房との間で主従関係が生じたと考えられる。上杉重房が宗尊親王が鎌倉幕府将軍に就任のために鎌倉へと下向する際に従った。その従者の中に太田資国もあり、宗尊親王将軍が鎌倉を追放となった後も鎌倉に残った上杉家の執政として地位を確保した。

上杉氏は鎌倉幕府の中にあって足利氏との血縁関係を結ぶ。やがて、足利尊氏によって室町幕府が樹立されると、上杉氏は山内・犬懸・扇谷・宅間の四家に別れ、武家発祥の地・鎌倉の押さえである鎌倉公方を支える関東管領となる。太田氏は資房の代に扇谷上杉家に仕えている。足利領の丹波国八田郷上杉村を相続した上杉朝定の養子・顕定が鎌倉の扇ヶ谷に住んだが、その子で評定衆に列した氏定の若党が太田氏だった。

さて、鎌倉公方・足利持氏が京都の室町幕府将軍・足利義教と対立し、諌める関東管領・上杉憲実(越後守護・上杉房方の三男)と武力衝突に及ぶ(永享の乱[1438])。幕府は上杉持房を総大将とし、駿河国の今川範忠や南陸奥の伊達持宗・白川氏朝・石橋義久らに、上杉憲実を支援し鎌倉公方・足利持氏討伐を命じた。この戦いで足利持氏は敗れ自刃。乱後、山内憲実は主君を自刃に追いやった責任を感じ家督を子の憲忠に譲る。また、持朝も足利持氏の子・成氏が鎌倉公方に就任すると、扇谷上杉持朝も子の顕房に家督を譲り隠居。

ここに至って、太田資房の子・資清(道真)は氏定の子・扇谷上杉持朝の家宰として山内上杉家の家宰・長尾景仲と並び立ち「関東無双の案者」と称されるようになる。

http://www.digistats.net/image/2009/08/ohta.gif

トップ   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS