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戦国期の下総千葉氏
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千葉氏の系譜
戦国期の下総千葉氏
↑
1532年 享禄5年
5月
千葉勝胤
の死去に伴い、
昌胤
が千葉家の家督を承継。
↑
1538年 天文7年
10月
第1次国府台(松戸相模台)合戦
小弓公方・足利義明軍
北条氏綱軍
里見義堯
真里谷信応
北条氏康
北条長綱
千葉昌胤
古河公方足利晴氏(義明の甥)
相模台(松戸市)にて足利義明が討死し、里見義堯は壊走。
11月
千葉昌胤
が千葉妙見社禰宜左衛門大夫に禰宜職安堵(「下総崎房秋葉孫兵衛旧蔵模写文書」『千葉県の歴史』3九一○頁)。
↑
1540年 天文9年
5月
古河公方
・足利晴氏より安房里見氏に庇護されている小弓公方一党の追討を命じられる(「聚古文書」『千葉県の歴史』4四七八頁)。
↑
1543年 天文12年
7月
真里谷武田信隆は謀反の讒言を信じ笹子城主・真里谷信茂を討伐。直後に信隆が病死したことに伴う内戦に北条方として
千葉昌胤
参加(「中尾落草紙」『群書類従』第二十一輯)。
↑
1546年 天文15年
正月27日
千葉昌胤
が死去する(「千学集抜粋」『千葉県の歴史』5九七一頁)。
千葉昌胤
と古河公方宿老の梁田高助の娘との間の子・
利胤
が家督を承継。
9月
真里谷信応の援軍を得て、弟の臼井城主・臼井胤寿を攻める。
↑
1547年 天文16年
6月
18日:
太田合戦
:安房里見氏が侵攻し椎名氏らが討死。
21日:
八日市場合戦
:安房里見氏と合戦。押田氏らが戦死(「海上年代記」『千葉県の歴史』5九七一頁・「恵光院過去帳」『八日市場史 上巻』六四二頁)。
7月
12日:
千葉利胤
急死(「千学集抜粋」『千葉県の歴史』5九七二頁)。末弟の
親胤
が家督を承継。幼少のため、小弓原胤清が後見。
↑
1550年 天文19年
12月
24日:小弓原胤清の嫡男・胤貞が臼井城主となる。
↑
1552年 天文24年
10月
10日:安房里見氏宿老・正木時茂が小弓原領千葉に侵攻(「千学集抜粋」『千葉県の歴史』5九八○頁)。
↑
1552年 弘治元年
閏11月
千葉親胤
が元服し、北条氏康の娘と結婚。
↑
1553年 弘治2年
11月
26日:
篠本合戦
:安房里見氏が再び侵攻(「妙福寺過去帳」『八日市場市史』二一八頁)。
↑
1554年 弘治3年
8月
7日:
千葉親胤
が急死(「本土寺過去帳」『千葉県史料』本三〜四頁)。庶兄の森山城主・海上
胤富
が家督を承継。胤富派による暗殺とも。
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1560年 永禄3年
5月
19日:
桶狭間の戦い
:織田信長が今川義元を田楽狭間で討ち取る。
8月
上杉謙信第1次越山
:1552(天文21)年に北条氏康によって上野国平井城を逐われた関東管領・上杉憲政、同じく北条氏と対峙していた下総国の簗田晴助、武蔵国の太田資正、常陸国の佐竹義昭、安房国の里見義堯らの来援要請により、8千余の軍勢を率いて関東に討ち入り。
10月
上杉謙信に連動して安房里見氏が香取郡木内庄富田台に上陸(「秋山仙一氏所蔵文書」『千葉県の歴史』3九三三頁)。
12月
千葉六党
の海上氏の拠点・中島城が安房里見氏によって攻撃(「常陸誌料」『千葉県の歴史』5六二〇頁)。
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1561年 永禄4年
3月
千葉六党
の国分氏の拠点・大戸庄矢作城が安房里見氏によって攻撃(「大虫岑和尚語集」『千葉県の歴史』5九九一頁)。
↑
1562年 永禄5年
3月
千葉胤富
が安房里見氏配下の勝浦正木氏が占拠していた小見川城を攻撃するも失敗。
↑
1563年 永禄6年
北条氏康と武田信玄が上杉謙信方の武蔵国松山城を攻撃。里見義堯が嫡男義弘を援軍として派遣するも松山城は落城。
9月
小田喜正木氏が海上長谷新城を築城し一宮正木氏を城主とする(「海上年代記」千葉県の歴史』5九九五頁)。
年末
北条氏康の配下であった江戸城守将太田康資が同族の武蔵国岩付城主・太田資正を通じて上杉謙信への寝返るも失敗。太田康資は資正を頼って武蔵国岩付城に逃れる。
↑
1564年 永禄7年
1月
4日:上杉謙信から両太田氏救援の要請を受け里見義弘が国府台城に入る。
千葉胤富
も北条軍と連携して迎撃。
第2次国府台合戦
北条氏康
上杉謙信
千葉胤富
里見義弘
北条綱成
江戸城将
遠山綱景、富永直勝
土岐為頼(裏切)
小田喜正木信茂(戦死)
土気城主酒井胤治