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**瀬戸内の城館址
早く訪れてみたいという想いを込めて。。。&br;
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|BGCOLOR(#548094):城館址名|BGCOLOR(#548094):築城者、備考等|BGCOLOR(#548094):所在地(旧地名)|BGCOLOR(#548094):最寄り駅|
|能島城|南北朝から戦国時代に能島村上氏の居城。|愛媛県今治市宮窪町宮窪||
|幸賀屋敷|宮窪の中央に位置し眼下に海が迫る。前面に能島が指呼の間に臨む。背後のカイレ山には能島村上氏の居城・宮窪城があったと伝承される。幸賀屋敷は宮窪城と一体だったと考えられる。|愛媛県今治市宮窪町宮窪||
|見近城|伯方島と大島の中間にある見近島にある村上氏による城郭。|愛媛県今治市宮窪町見近島||
|隈嶽城|亀老山にある南北朝時代の村上氏による城郭。中腹の34番札所妙法寺には村上義弘の墓がある。また、武志島の長顕寺にあった伝北畠顕成の供養塔もある。北畠顕成は能島村上氏の初代と伝わる。また、山麓の高龍寺は村上筑前守仲宗による開基で村上家歴代の墓所がある。|愛媛県今治市吉海町亀老山||
|見近城址|能島村上氏の城。|愛媛県今治市宮窪町見近島||
|姫内城址|能島村上氏の城。|愛媛県今治市吉海町椋名||
|武志城址|能島村上氏の城。姫内城の枝城。|愛媛県今治市吉海町椋名||
|中渡城址|能島村上氏の城。姫内城の枝城。|愛媛県今治市吉海町椋名||
|亀田城址|『佐方村上由緒書』によると、因島村上義光が1610(慶長15)年に佐方に移るまで居城としたという。隈嶽城の枝城。|愛媛県今治市吉海町福田||
|原城址|隈嶽城の枝城。城址にある原八幡神社は武志城主村上頼員が1233(天福元)年に勧請したもの。|愛媛県今治市吉海町仁江||
|津倉城址|醍醐寺領大島庄の中心地にある南北朝期の能島村上氏の城郭址。|愛媛県今治市吉海町本庄||
|木浦城址|木浦港の北の岩ヶ峰山に築城された村上水軍城。能島村上山城守雅房の墓所が近くにあることから関係か。|愛媛県今治市伯方町木浦||
|国分山城址|能島村上大和守武吉が1571(元亀2)年頃に毛利氏への備えとして築城(『河野分限帳』)。|愛媛県今治市国分||
|新居大島城址|村上義弘の居城。|愛媛県新居浜市大島||
|周防上関城址|能島村上山城守義顕が築城。三男阿波守吉敏、その子・対馬守武満が城主を務めた。|山口県熊毛郡上関町||
|鳥越城址|能島村上武吉の叔父・隆重が築城。|岡山県笠岡市神島||
|笠岡城址|能島村上武吉の叔父・隆重が築城。その子・景広が1599(慶長4)年まで城主を務めた。|岡山県笠岡市笠岡||
|本太城址|能島村上氏の一族・島越前守吉利が守った備前児島の城。1568(永禄11)年に能島村上武吉に従って、阿波の香西又五郎を討ち取った功により、小早川隆景から賞詞を受け、能島村上武吉から本太(もとふと)城を与えられた。|岡山県倉敷市児島塩生||
|天神山城址|初代因島村上備中入道吉豊が1428(正長元)年に備後守護・山名時熙から田島地頭職を与えられ、その子・吉則が築城。後に、因島村上氏ではなく能島村上隆重の城となり、能島村上景広が引き継いだ。|広島県福山市内海町田島||
|鎮海山城址|豊臣秀吉の逆鱗に触れた能島村上武吉、元吉・景親が小早川隆景の庇護を受け居城とした。|岡山県竹原市竹原町貞光||
|来島城址|初代来島村上顕吉が築城し、康親に至るまで来島村上氏6代の居城となった。|愛媛県今治市来島||
|小島城址|来島海峡の小島(おしま)にある城。来島村上氏配下の今岡治部丞が守将を務めた。|愛媛県今治市小島||
|来島氏居館址|第4代来島村上通康が来島城から移った居館。これ以降、来島城は詰城として機能。|愛媛県今治市波方町波方||
|怪島城址|別府沖斎灘に浮かぶ怪島(けしま)にある段階連廓式水軍城。河野氏の神野左馬允が守将を務めたが、1585(天正13)年に小早川隆景に攻められ落城。|愛媛県今治市大西町別府怪島||
|高仙城址|高仙(こうぜ)城は河野氏配下の池原氏の居城。1585(天正13)年に河野氏が滅亡すると、来島通総が支配。|愛媛県今治市菊間町種東山||
|鹿島城址|来島城の支城として築城され二神氏が城代を務めた。来島通総が河野氏を離反し豊臣秀吉の旗下に入り伊予を去った後、来島党が通総の兄・得能通之を立てて毛利に対抗した拠点。|愛媛県松山市鹿島||


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