[[歴史年表]]
*始皇帝による中国統一 問題篇
紀元前247年に即位した秦の政は、李斯を丞相として国力増強に努めた。紀元前223年に秦の最大の敵であった楚を滅ぼす。
*始皇帝による中国統一
|紀元前246年|秦の荘襄王が死去。子の政が13歳にして即位。|
|紀元前238年|呂不韋を遠ざける。李斯を丞相として重用。|
|紀元前227年|燕の太子丹は隣国の趙が秦に滅ぼされたことで危機感を抱き、荊軻を刺客として送り込むも暗殺に失敗。|
|紀元前225年|秦の最大の敵である楚を攻めるも敗北。引退していた王翦を将軍に登用し項燕(項羽の祖父)率いる楚軍を破る。|
|紀元前221年|六国の中で最後に残った斉を滅ぼし中国を統一。&br;政は、自ら始皇帝(シーホワンディー、Shǐ Huángdì)を名乗る。|
|紀元前214年|北の匈奴に備えるために万里の長城を修復。&br;将軍蒙恬に30万の兵を与えて匈奴を討伐、オルドス地方に版図を拡大。|
|紀元前213年|李斯の進言により、周王朝の再興を願い秦王朝を批判する儒者達の書物を焼き払わせる焚書を行う。翌年、不老不死薬作りに失敗した儒者をも弾圧。|
|紀元前219年|2度目の巡遊の途中、始皇帝は泰山で封禅の儀を執り行う。|
|紀元前218年|3度目の巡遊中、博浪沙(はくろうさ)にて張良による暗殺未遂事件発生。|
|紀元前210年|5度目の巡遊の最中に死去。|
|紀元前209年|陳勝・呉広の乱が勃発。|

紀元前221年、秦は六国の中で最後に残った斉を滅ぼし、中国を統一し、自ら皇帝(初めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。

始皇帝は、現代中国語では、始皇帝(シーホワンディー、Shǐ Huángdì)または秦始皇(チンシーホワン、Qín Shǐ Huáng)という。
**参考文献
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始皇帝は&color(red){【A】};・&color(red){【B】};、&color(red){【C】};など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設した。万里の長城の建設は主に農民を使役して行われたが、過酷な労働と極度の法治主義に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海・象(しょう)・桂林の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。

~解答は[[ここ:http://www.digistats.net/z/index.php?%B2%F2%C5%FA%CA%D3%A3%B1#content_1_0]]。
~出典:[[wikipedia:http://www.wikipedia.co.jp/]]を改編。



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