埼玉県

埼玉の城館址

早く訪れてみたいという想いを込めて。。。

城館址名築城者、備考等所在地(旧地名)最寄り駅
代山城岩槻城主・太田氏の家臣・小久保縫殿助の居城。浦和
針ヶ谷陣屋岩槻城主高力河内守清長の家臣・中村弥右衛門の陣屋。浦和
戸塚城忍城城主・成田氏の家臣・小宮山弾正忠孝の居城。川口
本郷城岩槻城主・太田道潅によって築城。現在は曹洞宗傑伝寺境内。『新編武蔵風土記稿』によると「広さ六千坪許、南の方に表門あり、此所古の追手口なるべし、又東北の二方にも門あり、表門の外に少しの坂あり、坂の上に土居から堀などあり、坂の下も廓内にして、爰に又土居の遺形みえたり、思ふに全棟寺の中興開基太田備中輝資、此辺に住せしといへば、恐らく此人の居跡なるべし」とある。川口市東本郷
蕨城足利一門の渋川義行が武蔵守として居館を築いたのが始まり。1457(長禄元)年、室町幕府将軍足利義政が鎌倉を去った古河公方・足利成氏に対峙するために、渋川義行の孫・義鏡を関東探題として蕨城に派遣している。現在の和楽備神社に当たる。
岡城太田道灌の孫・資高と北条氏綱の娘との間に産まれた次男・太田新六郎康資による築城か。『新編風土記稿』に「相伝ふ此城昔太田道潅の持なりと、東円寺縁起にも其事を載せたり、按に道潅が城地此所にありしと云ことは、他に所見なし、永禄の比此近郷は太田新六郎康資が知行と云えば、もしくは康資が館などにありしにや」とある。
太田康資は小田原北条氏に叛旗を翻し敗北。岩槻城への退却を経て、1581(天正9)年に房洲で没し誕生寺に葬られた。
朝霞
柏の城
引又城
平安時代には四面長者長勝の館。鎌倉時代の1289(正応2)年には二階堂土佐守が居城としたという。
『新編風土記稿』によると、室町時代には1528(大永4)年には大石信濃守信吉が改築し、大石越後守が居城したという。大石越後守は1590(天正18)年に北条方として獅子浜城にて豊臣秀吉軍に対峙したことが知られている。
志木市
寿能城大宮公園東の寿能公園に位置する。
河越夜戦(1546[天文15]年)による両上杉家の没落以降、武蔵国で小田原北条氏に対抗し得たのは岩附城の太田資正と青梅勝沼城の三田綱秀のみだった。その太田資正が四男・潮田資忠に築かせた城。しかし、1564(永禄7)年に太田資正が宇都宮に出た隙に嫡男・太田氏資が北条氏康に与し父・資正を追放。寿能城も北条氏の支配下となる。
大宮
伊達城太田氏家老・伊達与兵衛房実の居城。寿能城と対をなす城であり1564(永禄7)年以前の築城と考えられる。伊達与兵衛房実は北条氏滅亡後、徳川家康に仕え足立郡大和田250石を領した。現在は厚生年金老人ホームとなっている。大宮
中丸城別名、春日城といい、現在は春日神社が鎮座している。
1352(観応3)年に軍功により足利尊氏から春日八郎行元が足立郡内の野田と中丸に領地を得た(浦和・明照寺伝)。室町時代には岩附城主・太田三楽斎資正の家臣として春日兵庫助景定が仕えている。
大宮
大成館おおなりやかた。徳川幕府勘定奉行小栗上野介家菩提寺の曹洞宗・普門院が館址。
『新編風土記稿』には「境内はかの(金子)駿河守の城跡なりともいへり、今も東北の方に、から堀など残り住居の跡なる事知らる」とある。武蔵七党の村山党の金子家範の5代の後胤が金子駿河守と伝える。
大宮
金子山城武蔵七党の村山党の一族・金子彦十郎の居城。金子彦十郎は河越氏との戦いの傷がもとで亡くなり、家臣16名が切腹したという十六塚伝説が伝わる。大宮JR川越線指扇駅北方
箕田の城山『新編風土記稿』には「屋敷址と云所あり、これを六孫王経基の陣所とも頼義の陣所なりとも云、また箕田武蔵守源仕が居址なりとも称せり」とある。鴻巣JR高崎線鴻巣駅西方
河越館武蔵国留守所総検校職・秩父重綱の次男・河越重隆の居館址。川越
河越城別名を初雁城。1457(長禄元)年に扇谷上杉持朝が太田道真に築城させた。
[第一次河越合戦]
1537(天文6)年7月、扇谷上杉朝定が籠もる河越城を北条氏綱が攻め敗走させる。城代として北条綱成を置く。
[第二次河越合戦]
1546(天文14)年、両上杉家は古河公方・足利利氏と連合し足利晴氏が砂久保に、山内上杉憲政が狭山柏原に布陣。翌年5月、北条氏康は包囲された北条綱成を救援するため府中に布陣。策謀の後に夜襲を行い、山内上杉憲政を上州平井城に敗走させ、扇谷上杉朝定を討ち取り扇谷上杉家を滅亡させた。
北条氏康は大導寺政繁を城代とした。1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐では前田利家軍に攻められ、大導寺政繁は自刃し落城した。
川越JR川越駅
滝の城『入間郡誌』には太田下野守、『小田原編年録』には大石定久による築城とある。多摩の滝山城の支城と考えられ、各曲輪間の連絡路が一本の土橋である点など北条流の築城形式であり、大石定久による築城か。所沢JR武蔵野線東所沢駅
根古屋城『新編風土記稿』に「土人の伝へに、星見小太郎が住せし所なりと云。また云、さにあらず、山口太郎と云人住りと。太郎は武蔵七党の支流にて東鑑にも見えたる人なり」とか「勝楽寺村龍谷の城主豊後入道伏見小太郎」とある。この龍谷というのは『山口氏系図』に「山口小太郎高忠、明徳・応永の比新堀村の山上に城を築き、龍谷の城と名づく」とあることから山口氏の居城と考えられる。所沢
山口城武蔵七党の村山党出身の山口七郎家継の居城。『山口氏系図』によると、山口三河守高実と子・平内左衛門高清が鎌倉公方足利氏満によって討伐されている。その後、応永年間(1394-1428)に高清の孫・小太郎高忠が根古屋城を築城し居を移している。所沢
中山館鎌倉時代の丹治武信を祖とする中山氏の館址は、丹治武信が創建した真言宗宗智観寺の近くにある。同寺は中山氏の菩提寺であり、1242(仁治3)年、1299(永仁7)年の板碑が残る。飯能
柏原城1546(天文15)年の河越合戦時に北条綱成の守る河越城を包囲した両上杉・古河公方連合軍の山内上杉憲政が陣を敷いた場所。山内上杉憲政は、ここで北条綱成の救援に駆けつけた北条氏康の軍に敗北し上州平井城に敗走した。狭山
金子館武蔵七党の村山党の金子(村山)家範の館址は現在は瑞泉寺の境内となっている。瑞泉寺には金子一族の宝篋印塔が立っている。入間JR八高線金子駅
難波田城天文年間(1532-1553)に扇谷上杉朝興に仕えた難波田弾正憲重の居城と伝えられる。難波田氏は武蔵七党のひとつ、村山党に属していた金子小太郎高範の子孫。難波田弾正憲重は松山城城主代、深大寺城城主としても知られている。難波田弾正憲重は河越夜戦の際に東明寺辺の戦いで父子ともに北条氏康の軍によって討ち取られた。弾正自身は戦いの最中に古井戸に落下し亡くなったと伝えられている。扇谷上杉氏とともに難波田氏も河越夜戦で滅亡すると北条氏康の家臣・上田周防守が城主となった。富士見市蓮田
毛呂山城大宰府派遣中の追捕中に日吉神社神人を殺害して常陸に配流された権中納言・藤原季仲(1046[永承元]-1119[元永2])の子・季清が毛呂郷に居を構え毛呂を名乗ったのが始まり。武蔵七党の丹党と結びつき勢力を大きくした。その毛呂氏の居城が毛呂山城。

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