館は鴻ノ巣御所とも呼ばれた。足利成氏の時代に築かれたと考えられる。しかし、1582(天正10)年に第5代古河公方足利義氏が亡くなった後、跡継ぎがいなかったために息女の氏女に300石を与えられて領地が召し上げられた。<p>その氏女は、1590(天正18)年に豊臣秀吉が名家断絶を憂いて、小弓御所足利義明の孫の国朝を古河公方の跡継ぎとし氏女と結婚させ喜連川5000石とする。後に国朝に先立たれた氏女は弟の頼氏と結婚し義親を産む。義親が亡くなり尊信が喜連川家を承継すると本拠地を喜連川に移し古河館は廃墟となった。
享徳の乱によって、鎌倉公方足利持氏が室町将軍足利義教と対立。関東管領上杉憲実も将軍方に与し、1438(永享10)年に持氏らは鎌倉で自害。その後、管領上杉憲実らが残った遺児である足利成氏(万寿王丸)を迎えて鎌倉府の再建を図った。しかし、上杉氏家臣長尾・太田氏との対立から1454(享徳3)年に勃発した上杉憲忠を殺害。享徳の大乱(関東大乱)が勃発。成氏は鎌倉を後にした。